字が書けず、指に包帯を
「世の中でいま政治を決めているのは、多数決です」(先生)
社会の授業中、黒板の文字を真剣な表情で書き取るのは、小田クニ子さん(72)。小田さんは、小学校へも行く事ができませんでした。
「親に『女の子は学校行かんでもいいから働いてもらわなあかんから。(学校には)行かされへん』って言われて。それで、もう・・・」(小田クニ子さん)
貧しさから、教育を受ける事ができず、ひらがな以外の文字を、書く事ができませんでした。
「役所関係とか、全部自分が行きますねんけど。恥ずかしい話、この指に包帯巻いて『書けないので、書いていただけますか』とか言ったりして。悪い事したな。みんなにね。結局迷惑かけてるでしょ?役所の人に手かけてるし」(小田さん)
字が書けなくても、3人の子どもを育て上げた小田さん。70歳を前に、夜間中学に通い始め、内向きだった性格にも変化があったそうです。
「変わりました。自分が前向きになって『書こうか、行こうか、しようか』とかいうことができるようになりました。一つ漢字書けて、あぁこれでこの漢字読めたらなと思ったらめちゃくちゃ嬉しくて…それがもう嬉しいですね。」(小田さん)
「ひらがな以外の字が書けなかった」小田クニ子さんは、長い間人知れず悩み続けた
小田さんは学校生活を通して性格が前向きに変わっていったと話す
嫁や孫と話がしたい
「敬語の種類は3種類ありました、それぞれ何だっけ?」(先生)
「尊敬語、、、」(生徒)
「先生 ゴは点々いらんの?」
「先生 7番ちょっと難しいな。」
先生に対し何度も質問をするのは、西田淑清(しゅくせい)さん(73)。中国・大連で生まれました。
「そのとき中国貧乏。生活、無理。食べものないし、お金もないし。学校行く時に服もないし。中学へ行ったら、2年の時に退学した。お母さん、お父さん、病気になった」(西田さん)
両親を支えるため、学校を辞めざるを得ませんでした。その後、大連で中国残留邦人だった夫と結婚。およそ30年前に日本へとやってきて、2人の男の子を育て上げました。
「困った。色々困った。2人の子どもも結婚した。嫁さんは全部日本の方、だから私ほんと
その時恥ずかしい。嫁さん直接言ってる言葉分からない。その時、やっぱりあかん。日本語できない、そう、でも無理です。だから私決めた、学校行く」(西田さん)
新しくできた家族と、普通に会話をしたい。西田さんは64歳の時に、夜間中学の門を叩きました。
「今、嫁と孫、会話できる。問題ない。心、ほんと明るくなった。私の第二の人生になりました。嬉しいよ!って。」(西田さん)
西田さんは30年前、中国から来日。日本でできた新しい家族と会話がしたくて学習に臨む
日本で夢をかなえたい
こちらは、日本へ来て日が浅い人たちが多く集まるクラスです。
「漢字難しい」
「これの漢字よりは、これもっと難しいじゃない」
隣の子にアドバイスをするのは、19歳のアニル・ガイレさん。2年前、ネパールからやってきました。
(Q.ネパールでは日本語勉強してましたか?)
「ぜんぜん無いです。」(アニルさん)
(Q.(日本語は)2年で覚えた?)
「そうです。まぁ頑張ってます。まぁ結構日本語は難しいです」(アニルさん)
お昼と週末は、居酒屋でアルバイト。日本語での接客、難しくないですか?
「とても。漢字とか読めないだから、もうたまにね、私がお客様に聞くときも困ることはいっぱい」(アニルさん)
将来の夢は、自動車に関する技術を学ぶこと。
「機械勉強したい。車の構造とか、そこに機械をやりたい」(アニルさん)
こちらも、ネパールから来た、20歳と19歳の姉妹。今年4月に入学し、沢山の漢字を覚えました。
(Q.覚えた漢字は?)
「日月火水木金土」(妹のサプコタ・シリシティさん)
「夜間学級で頑張って、再来年高校へ行きたい」(姉のサプコタ・スリジャナさん)
そんな2人、今まで休まず通っていましたが、この前、初めて欠席してしまったそう。
「祭りがあったから、おとといは休みました(笑)」(姉・スリジャナさん)
9月に入ると、ネパールはお祭りシーズン。おしゃれに着飾って、大阪で母親と一緒に楽しみました。たまには息抜きも、しないとね。
ネパールから来たアニルさんは居酒屋で働きながら夜間中学での勉強に励む
外国人にとっては1週間の曜日を覚えるのにもひと苦労
戦後に始まった夜間中学 変わるもの・変わらないもの
戦後の混乱の中。義務教育を受けられなかった人のために開設された夜間中学。時代の流れと共に、生徒の構成は大きく変わりました。
「今現在は、3割ぐらいの方がネパールの方です。中国とか引揚げのかたを含めて2割ぐらい。日本籍の方が2割。それ以外の方が3割という事になりますね。昔、戦争や生活が貧しくてとか、いろんな状況を抱えられて学校に行けなかったという方も、今はずいぶんと高齢になってきてはりますので、そういった方が減ってきています」(天満中学校・竹島章好先生)
しかし、時代が変わり、生徒が変わっても、夜間中学の役割は今も昔も変わらないと、先生は話します。
「籍が違って文化や背景が変わってきますけども、そういう意味では、基本的な教育を保証する場所としては一貫して変わってないと思います」(竹島先生)
かつての「夜間中学」は義務教育を受けられなかった生徒たちがほとんどだった
来日半年で帰国するつもりが・・・
再び、社会科の授業。国際化の波はこちらでも・・・。
「行政っていいます」(竹島先生)
「英語で?」(女性の生徒)
「アドミニストレーション? これ(翻訳機)使おうか。『行政』」(竹島先生)
「Administration」(翻訳機)
「この発音できひん(笑)」(竹島先生)
先生、今は便利な機械ができましたね。翻訳機の発音に納得の表情を浮かべたのは、日系ブラジル人の、田中リリアン春江さん(57)。およそ28年前、29歳の時に来日しました。
「ちょっと家は困ってたところで、早めに仕事、出ていたということ」(田中リリアン春江さん)
1980年代。ブラジル経済は激しい混乱に見舞われ、田中さんはルーツのある日本にやってきました。最初は半年で帰る予定でしたが・・・。
「まわりの人が、おじいちゃんおばあちゃんら。ものすごい甘やかしてくれて。一生懸命よしよししてくれた」(田中さん)
日系ブラジル人を支援する人からの支えで、すぐに溶け込む事ができたという田中さん。
その経験が「学ぶこと」への原動力となりました。
「自分も昔いろんな人らから助けてもらった。日本来たときに、カタコトの日本語で。それの分を、今来ている若い子たちにも、できれば助けたいなっていう事」(田中さん)
外国人の生徒が増え、「夜間中学」にも国際化の波が。先生も“文明の利器”に力を借りる
ブラジルからきた田中リリアン春江さん
「自分が覚えたことは、誰も盗らない」
夜間中学だからこそ知った、教育の意味。それは・・・
「一番大事な財産、やっぱり自分が覚える事。それは誰も盗る事できない。物はいつでも自分の手に入るけど。学校、覚える事、(簡単には手に)入らない。行って頑張らなあかんていう事。誰も盗らない。自分が1回覚えた事は。そういう事」(田中さん)
真夜中の夜間中学をのぞいてみると、そこには、人の数だけ物語がありました。次は、あなたの街に、カメラを置かせてもらえませんか。
なぜ学ぶのか・・・田中さんは自ら得た答えを、自ら学んだ言葉で語った