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1月3日ゲスト:フジオ・プロダクション代表取締役社長 |
赤塚りえ子さん |
手塚「ご無沙汰しております。新春早々からよろしくお願いしま〜す」赤塚「ありがとうございます」手塚「実は私とりえ子さんは普段から友人として親しくしています。知り合ったのは2006年でしたか」赤塚「そうですね、2006年に私が日本に帰ってきてからですね」手塚「2006年にフジオ・プロ前社長、赤塚眞知子さんがお亡くなりになって、そのお別れ会とりえ子さんの社長就任パーティの場で初めてお会いしました。とはいえ古くからりえ子さんは音楽が好きでいろんなイベントやパーティーに顔を出し、武勇伝を作ってきています」赤塚「(笑)」手塚「そういうわけで共通の友人や知人が多かったので、初めて会っても違和感はなかったですね」赤塚「同じパーティとか行ってたんですよね」手塚「後で聞いてニアミスしていたという」赤塚「でも噂には(笑)やっとお会いできて感激しました」手塚「いえいえ」
手塚「私も聞いたことがないのですが、小さい頃はどんなお子さんだったのですか?」赤塚「わりとおとなしい子供でした...」手塚「みえませんけどねぇ」赤塚「(笑)父親とは小学校に上がるぐらいまで一緒でしたが、その頃から戻ってこなくなりました。それまでもあまり帰ってきませんでしたけど...。今から思えば変だったのかなと思うのは、小さい時に家族で出た番組がありました。そのビデオが残っていて“りえちゃん、好きなお歌は?”って司会の方が私に質問したんです。いきなり私『年上の女』って言ったんです」手塚「(笑)」赤塚「可愛くないですよね。そういう大人の中で育った子供で、両親が表であまり友達と遊ばせてくれなかったんです。あの当時誘拐が流行っていたので..」手塚「家の中でお絵かきしたりとか...」赤塚「それが足の裏ばかり描いてたんです(笑)なんなんですかね、やばいんですかね(笑)」手塚「はぁー、うちも漫画家の家なので父親が連載を持っていたりすると家に帰ってこないと言うのは一緒だと思いますが、赤塚先生の場合はさらに遊びの方でもかなり時間を取られていたのではないかと...。それでもアシスタントの方が遊びに来ると言うことは多かったのでは?」赤塚「父がいる時は常ににぎやかな感じで。父親が銀玉鉄砲の撃ち合いをアシスタントの方と真剣にやっていたのははっきりと覚えています」手塚「家で?」赤塚「家で。二階に日本間があるんですけど十二畳ぐらいの。そこで二手に分かれて陣地を作って、テーブルを立てて。後で知ったんですが当たると痛いために上半身裸になって。その記憶は鮮明に残っています」手塚「そういう時にお母様はどういう態度で?」赤塚「私の母もわりと赤塚不二夫系の...。銀玉は一緒にはやりませんでしたが、いたずらとかは一緒にやっていたみたいです」手塚「りえ子さんのお母様も赤塚先生を超えるほどの個性の持ち主で、元々はアシスタントいらしたんですよね」赤塚「そうです。父の女性アシスタント第1号で、父がまだトキワ荘にいた時です」
手塚「その両親の影響はかなり受けたと思いますが?」赤塚「そういう親だったのでそれが当たり前で育ったんです。その後日本のシステムで社会に関わらずにイギリスに行ったものですから...。イギリスでも赤塚不二夫系の人に囲まれて12年間過ごして戻ってきた時に、今度はキチンとした世界に入るじゃないですか。社長としてやっていくことになるんですけど、そこでいろいろな方とお会いしてお話をして、そこで初めて自分のズレが分かりました(笑)」
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手塚「10代の頃の関心事は?」赤塚「うちの両親は“勉強しろ”と一回も言ったことがないんです。だからそれを守るじゃないですか。だからその辺はどうしようもなかったんですが...、美術だけは点数が良かったんです。音楽に入るきっかけはラジオでシンセサイザーの音を、70年代の後半かな、聞いたんです。その音を聞いた時にビックリして、それからエレクトロニックの方に。中学3年生の時に隣のお兄さんがYMOのレコードを貸してくれてすぐにドップリと浸かって、1週間後に細野さんのファンになりました。高校3年間は細野さんに捧げた3年間でした(笑)学校の上履きに『細野晴臣』と書いて、テクノカットをして。もみあげを毛抜きで抜いて...」手塚「(笑)」
手塚「20代はイギリスに留学され、現代美術作家としてロンドンを拠点に活動されていましたが、何がきっかけで?」赤塚「やっぱり親が二人とも絵を描く、美術、アートじゃないですか。だから自分もアートに行くと思っていたんです。それでイギリスの音楽が好きだったので“本場に行かないと”と思ったんです。それでイギリスに行って、自分がやれることは美術しかないという感じで...」手塚「音楽の方に進もうとは思わなかったのですか?」赤塚「音楽は『2』だったんですよね...」手塚「あ、成績がね」赤塚「音符読めないし...。でも弾けないシンセサイザーは買ってはみたんですけど、親父に怒られましたけどね(笑)」手塚「ロンドンでは作品を発表したり、個展を開いたりしたのですか?」赤塚「個展をやるというお話を頂いた年に、眞知子さんが危篤になってしまって。大学を卒業してロンドンのギャラリーに所属しました。そこを中心に活動をしていました。展覧会に出たり2002年にリトアニアでやりました第8回バルティック・トレンナーレに参加しました
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1月10日 ゲスト:赤塚りえ子さん |
手塚「2006年にフジオ・プロダクションの社長に就任されましたが、それまでの10年はロンドンにいらしていて、たまには日本に帰っていらしたのですか?」赤塚「年に最低一回は戻ってきました」手塚「その時には赤塚先生とお話はされていたのですか?」赤塚「していました。戻ってくると必ず会いに行っていました」赤塚「ロンドンでの活動について意見をされることはありましたか?」赤塚「なかったですね(笑)興味ないですからね、娘が何してるか。でも日本で展覧会をするために作品を持って帰ってきた時、父は入院していたので、病室に持って行きました。その時に“面白いじゃないか”と言われて嬉しかったですね。今となってはその時に見せられて良かったと思います」手塚「わりと赤塚先生と会っておしゃべりしたり、飲み屋に連れて行かれたりと交流はされていたのですよね」赤塚「そうですね、赤塚不二夫としてじゃなくパパに会いに行くという感じですね」手塚「その辺は私からするとすごくうらやましくて。私は小さい時は父親に遊んで貰っていましたけど、10代から距離を置くようになってしまって、社会人になっても距離を縮められず、いざ大人の話をと思った時に亡くなってしまったから、話せる機会があまりなかったのでそれを後悔しています」赤塚「いなくなって初めて思うことが...。父が倒れて、2002年の4月から6年半入院したきりで、コミュニケーションがほぼ取れない状態でした。でもそういう状態でも生きていると言うのを、今、いなくなって分かります。世界の中心がなくなった感じが...、母親も父親もほぼ同時にいなくなって、自分の世界の中心がそこにあったんだなと言うのがいなくなって分かる...。父が生きている間はフジオ・プロの留守を預かると言うような、父の代理をしているという感じでしたが、父の葬儀の時に、これだけ愛されていたのを体感して、今まで以上の決意というか使命感が出てきました」
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手塚「私とりえ子さんのお父さんは、たまたま漫画家特殊な職業なんですが、一般的に娘から見た父親への気持ちは同じだと思います。りえ子さんもフジオ・プロの社長になっても、多少自分が出来ないことがあってもいいのかなと思っていたともいますが...」赤塚「甘えてた(笑)でもるみ子さんが仰ってたお父様に対する思い“手塚治虫という人物がいたことを忘れないで欲しい”ということは、もちろん理屈では分かるし自分もそう思っていました。でも赤塚が亡くなってから、身体で分かるようになりました」手塚「作品を残して貰っているというのがなにより...。一つ一つ身を削って描いたものだから肉片みたいなもので」赤塚「身体はなくなってしまったけれど、赤塚は生きていると言うことが作品があるから実感出来ます。死んで悲しいんですけど、ギャグマンガだから笑っちゃうんですよね。そこが赤塚らしいなというのがすごくあって...。父が亡くなって、母も亡くなって、生きていく自信も、気力も体力もなくなって、人生最大の危機だったんです。その時に祭壇の前で去年の10月に出た本に収録されている『鉄腕アトムなのだ!!』という...大丈夫なのかな(笑)」手塚「うちの先生のをパロッた」赤塚「本当に申し訳ないです、あんなマンガを画いてしまって(笑)それを読んでいたんです。本当におかしくて声を上げて笑っちゃったんです。その時に、こんなに悲しいのに、悲しみのどん底にいる自分の娘を笑わせる...。父がやりたかったことはこういうことなのかなと、泣いてる人でも笑わせたい。そんな感じがして...」手塚「分かったんだ、お父さんが」
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1月17日 ゲスト:赤塚りえ子さん |
手塚「赤塚先生が亡くなったと言うこともあって、一大赤塚不二夫ブームが来ていると思います。コマーシャルでもよく見ますが、世の中の赤塚不二夫に対する見方はどうですか?」赤塚「父が亡くなる前から進んでいた企画とかが復活して、去年の末に多く出版されました。でも葬儀の時にあんなに沢山の方がいらしてくれたので、本当に赤塚は愛されていたというのを体感しました」
手塚「これだけいろいろな漫画がある中で、手塚治虫や赤塚不二夫を若い人が読んでいるのかなと思っていましたが、『バカボン』とか『おそ松くん』とか結構若い人は読んでますね」赤塚「そうですね。例えば少年誌で連載されている時は小さすぎて読んでいなかった人でも、テレビでバカボンを見たという世代の方がいたり」手塚「そうですね、『バカボン』はアニメで何回もリニューアルされたり、再放送されたりしていますからね」
手塚「また赤塚先生の作品は、サブキャラクターが個性的で人気がありますよね。主役以上に...」赤塚「そうですね、タイトルが変わっていったりするんですよね(笑)」手塚「(笑)」赤塚「キャラクター数は多いですね、赤塚の絵はポップじゃないですか。だからキャラクターが作品の中から抜け出ても、デザイン的に成立するんです」
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手塚「何かを企画する時は読者が何を求めているかと言うところ出していくのですか?」赤塚「それもやっぱり意識していますが、父のどういうところ知って貰いたいかというところもあって、今は特にそういう気持ちが強いです。裸でセーラー服を着て最後にお尻を出すじゃないですか。あれも誇りに思うぐらいの(笑)」手塚「これこそうちの父だという(笑)」赤塚「リアルの赤塚不二夫をお伝えしたいと言うのが自分の使命だと思って...」
手塚「うちの手塚もそうですが、『アトム』知ってます『火の鳥』知ってます、わりとメインの作品は何となく知ってるという若い方は多いと思います。でもこんないい作品があるのに読まれていない、らしさが出ているという物をなんとしても読んで貰いたいという気持ちはありますね」赤塚「実は読み切りも含めて今までに約540作品を書いています。昨年の12月19日に『赤塚不二夫
裏 1000ページ』というのを私が監修して出版しました。あまり知られていないけど笑っちゃう作品をまとめました」
手塚「赤塚先生の作品の中で何が一番好きですか?」赤塚「私『レッツラゴン』大好きなんです。一番しっくりくる作品で、読んでいて自分のギャグセンスとマッチするんです。イギリスにいた時にだんだん笑わなくなっている自分に気がついて、眞知子さんに電話して“最近笑ってないんだけど、おもしろいのない?”て言ったらいきなり『レッツラゴン』が全巻送られてきました(笑)読んでみて“この人すごいな”と思って、父にファンレターを送りました」手塚「へぇー」赤塚「日本に戻ってきた時に父に“パパ、あの『レッツラゴン』やばいね”“だろ。俺、あれね、やりたいこと思いっきりやっちゃたよ。俺も大好きなんだよ”」手塚「あれは赤塚先生がいくつぐらいの時に書いた作品ですか?」赤塚「1970年代の半ばぐらいですね。タモリさんが『レッツラゴン』が一番好きだと仰ってて、その中にベラマッチャという熊が出てくるのですが、私はあのキャラクターが一番好きで、タモリさんも同じなんです」
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2008年を振り返って |
中島まゆみさん |