EarthDreamingロゴ 放送内容
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4月 ラレコ
4月
~5月
パク・トンハ
戎本みろ
5月 白井貴子
5月 北澤肯
5月
~6月
中島まゆみ
6月 杉浦邦俊
6月
~7月
伊藤遊
7月 高津玉枝
7月
~8月
高木俊太
村上由里子
8月 石川雅之
8月 大野由紀恵
9月 藤田志穂
9月 宮腰義仁
10月 時東ぁみ
10月 森摂
11月 竹宮惠子
11月 槇原敬之
11月
~12月
冨田勲
12月 上岡裕
12月 川端由美
12月 2008年を
振り返って
1月 赤塚りえ子
1月 中島まゆみ
1月 箕輪弥生
2月 イェンス・イェンセン
2月 武田双雲
3月 郷慎久朗
3月 椎名法子
3月
~4月
森摂
11月29日ゲスト:冨田勲さん

冨田勲1  手塚「富田さんは『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』といった手塚のテレビアニメの音楽をご担当されました。最初に手塚と出会ったのはいつ頃ですか?」富田「東映動画なんですよ。まだ若い頃にアドバイザーをされているときです。『シンドバットの冒険』の音楽を担当したとき。僕も学生から社会の仕事をするようになってすぐです。忙しい方ですからたまたま見えているときにお会いしたので、ゆっくり手塚さんと話すと言うことはなかったですね。『ジャングル大帝』の打ち合わせの時、それまでテレビというのは“電気紙芝居だ、ちゃちなもんだ”というように一般的には評価が低かった頃、アニメの音楽も予算がなくて、いい加減にごまかすという漫画が多かったのです。でも手塚さんは“これじゃダメだ、シンフォニックな音楽にお金をかけてアニメにもつける”と仰って、雄大なアフリカを思わせる音楽を作りました」

 手塚「1964年、ちょうど私が生まれた年です。この『ジャングル大帝』から日本のカラーアニメーションが始まりました。お話がきたのは前の年だと思いますが...」富田「その前に『新宝島』という短編をやらせていただいたのですが、普通手塚さんぐらいのクラスになるとマネージャーとかそう言う人たちから電話がかかってくるんですが、手塚さんて自分で電話かけてくるんですよ。だからこっちはビビっちゃうわけです。“こういう構想で...やりませんか?”いやだとは言えませんよね(笑)そんな調子で『ジャングル大帝』も依頼されました。それで忙しい方だからマネージャーがスケジュール作ってその時間に虫プロへ行きました。そうしたら病院の待合室みたいなところで皆さん待ってらっしゃる。打ち合わせ場所もなくて、廊下にがたがたのピアノがあってそこで打ち合わせることになりました。そこで手塚さんがいろんなLPを...。ちょっと話は変わりますが、音楽を愛する手塚さんにしてはひどいLPの扱いでした」手塚「はいはい」富田「僕も乱雑な方なんだけど、後で分からなくなると困るのできちっとしてる方なです。要するジャケットと中身が別々になっいるんですよ」手塚「そうですねぇ。確かに父の書斎のレコードもバラバラに積み上げてあって、埃をかぶって大変な扱いをされてました」富田「またあの頃の虫プロは道路が舗装されていなくて、畑が多かったんです。だから風が吹くと埃が入ってくるわけです。積み上がったLPの中から“このへんかな”って引き出すときに“ジャリジャリ”という音がするんです。それでチャイコフスキーの4番か5番かな、“これが『ジャングル大帝』のイメージに合う”と」手塚「それを聞かせたんですか」富田「ところがね、今のCDと違って埃も一緒に音を拾うでしょ。だから針をおろした瞬間にバリバリっとすごい音がしてその中から音楽が聞こえてくると言うような」手塚「ひどいですね」富田「でもイメージは分かりますよ。それで僕にもっと何か伝えたいと思って、終いに自分でピアノを弾き出して、それが結構ミスタッチが多かったけれどイメージは伝わってくるんですよ」手塚「それはチャイコフスキーに近い感じですか?」富田「そうです。“こういう雄大な感じ”なんて、結構弾かれるんですね。ご家庭ではどうでした?」手塚「学生時代に独学で弾けるようになって、元々音感が良かったので譜面が読めなくてもレコードを一回聴くとコピーが出来ました。家でもたまに弾いていました」富田「でも僕ら作曲仲間で、僕以外誰も手塚さんのピアノを聴いていないんですって」手塚「結構漫画家の先生方は、余興でアコーディオンを弾いたとか、聴いていますが。音楽家の前で弾くのはちょっとというのがあったのかもしれませんね」富田「その頃カセットが出始めの頃だったので録音しておけば良かったと思ってね。それで弾き終わるとあの人照れるのね(笑)それで僕はあの『ジャングル大帝』の曲を作ったわけです」


冨田勲2 手塚「手塚が弾いたメロディを富田さんがお持ち帰りなってからあの曲になるまで...」富田「持ち帰ると言ってもテープレコーダーはあんまりない頃だから...、そのイメージを頭に入れて作りました。レオの雄叫びのあのイメージが最初に来た方がいいなと思ってスキャットから。これはイメージに結構合うと思って気に入っていたんです。仮録音をして手塚さんにお聴かせしました。その時にすぐかけてくれればいいのに、目の前の仕事が忙しくて聴いていないのです。それであの人昼、夜がないから、夜中の2時頃に一区切りついて電話かけてくるんですよ」手塚「(笑)」富田「そしたら手塚さんからのクレームでね“僕の知ってる音楽では出だしで1オクターブ以上の曲はない“って言うわけです。“これは歌えない、一般の人には。歌えないものは普及しないから何とか考えてくれ”と。僕はこれが一番、目指すポイントになると思っていたところが...、それを取るとたいして面白くないのです。印象にも残らないし。困ったなぁと思って...。でもあの人わりと頑固でしょ、言い出すと」手塚「無茶苦茶頑固です」富田「わりと重箱の隅みたいな、それが気になり出すと、それが全世界になっちゃうわけです。それでまぁ“考えておきます”ということで、そうしないと終わらないから。だけどどうにもそれ以外思いつかなかったのです。でも構想の期限は迫ってくる、仕上げなくちゃいけない...。結局期限が来ちゃったわけです。僕はそう言う作戦をしたわけじゃないんだけど(笑)結局そうなっちゃったわけ」手塚「手塚のクレームを受け付けずに...」富田「いや、受け付け...、考えていたんですよ。でも考えが及ばず締め切りが来ちゃった」手塚「(笑)」富田「それっきり電話、かかってこなかったけどね。“手塚さん怒ってるかなぁ。でもわりと気に入ったんじゃないかな”と思ってね。“あれは僕が間違ってたよ”とは決していわない人でしょ」手塚「ええ、そうですね。自分の間違いは言わない方ですね」富田「その後会ってもすごく機嫌がいいので、たぶん気に入ってくれたんだと思って、そう思いつつその話はしないで現在に至っているわけです」手塚「放送されても、手塚治虫は富田さんにお話は?」富田「一切ないですよ」手塚「(笑)」富田「“富田さん、あれやっぱり良かったですよ、あれで”とは言わなかったね」手塚「その一言がね、言っても良さそうな」富田「でも言わなくても分かりますよ」手塚「そうですよね。もちろん回りの評価もあの曲に関しては良かったですし」

 手塚「アニメの挿入歌などいっぱい作っていらっしゃいますが、音楽をつける大変さがあったと思いますが」富田「あの頃『トムとジェリー』とか、映像に音楽がぴったり合っているでしょ。ディズニーもそう。動物の動きに合わせて、しかも音楽という一つの形になっている。これは何か方法があると思って。だけどディズニーの場合は4年間で1作を作るという、余裕があったから出来たので週一ペースになると余裕がないですよね。でもあの時“一週間前には絵が上がっていること”という条件をつけたのです。一コマ一コマ見ながらテンポを決めて作曲していきました。録音当日は指揮者が合わせなければいけないので、フィルムに直接パンチで打っていきました。あの頃達人がいたのです、映画音楽専門の指揮者が。だから今『ジャングル大帝』のビデオをご覧になると音楽に絵を合わせたような...」手塚「本当にそうですね。今でしたらコンピューターで出来ますけど、あの当時生で録ってらっしゃるのに確実だというところが。そう言う裏の作業があったのですね」富田「これは手塚さんが、アニメの週一ペース。つまりアニメーションもドラマのように一週間で1本出来るんだという発明だったと思います」

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12月6日 ゲスト:冨田勲さん

冨田勲3 手塚「1966年に手塚が実験アニメ映画、私の一番好きなムソルグスキーの『展覧会の絵』を作っていますが、この時に富田さんにかなり無茶なお願いをしたそうですね」富田「このあいだお話しした『ジャングル大帝』を作っている忙しいさなか、また夜中に電話がかかってきて、“ムソルグスキーの原曲を元にしてオーケストレーションしてくれませんか”って言うんですよ。僕は“ラベル(が編曲した)名曲があるじゃないですか”“いや、あれは使う上で問題があったんで、何とか富田さん流のアレンジでやってくださいよ”ってね...。後で聞いたのですけど、ムソルグスキーはとうに著作権が切れている、ところがラベルの著作権は生きていたんです。編曲の著作権料も作曲の著作権料と同じだけ払わなければならないし、また映画に入る映画の著作権料はものすごく高いんです、外国の場合は。当時の為替レートは1ドル360円とても払いきれない、冨田勲の方が安いとそれで(笑)」手塚「ひどいですね(笑)」富田「ところが4日ぐらいしかないんですよ。手塚さんも切羽詰まってて、何とか出品したいと...。あの時の手塚さんのいい加減な言い方、“富田さんならちょいちょいちょいですよ”って。ラベルがアレンジをするのに一ヶ月近くはかかったと思うんですよ。それを、その言い方はないなと思ったんですよ。でも切羽詰まると手塚さんてそう言う言い方するんですってね、他でも(笑)」手塚「失礼ですよね、本当に」富田「それで僕はお断りしたんです、少なくても出品するときに“この音楽は4日間しかありませんでした”とタイトルに出してくれるのだったらやりますって(笑)でも、ふっと、ラベルの編曲した油絵のような色彩豊かなのではなく、むしろ線画的なイメージでと思いついて“なんとか出来ますよ”って言っちゃったんです。元がピアノ曲で、それをチェンバロに変えてそれだけのところもあるし、エレクトリックギターにディストーションをかけたのをアクセントに使って、後はどうしたのかぁ...。それで変わった編成で、ラベルとは違った、ムソルグスキーの原曲とは違った雰囲気のものが出来たと思います。なおかつアレンジに手間をかけないで...」手塚「後々手塚が書いたものに、この展覧会の絵の時は富田さんにわがままを言った”というように記事で謝っていました」富田「あれ、僕には通じてないなぁ...」手塚「あ、そうですか(笑)」富田「だけど今振り返ってみるとその間って言うのは辛かったけども、幸せな思い出です」


冨田勲4 手塚「2008年11月3日は手塚治虫の生誕80周年という日でした。亡くなってから来年で20年になります。このことについて富田さんからお話を伺いたいと思います」富田「う~ん(溜息)長くなっちゃうね、どれを取り上げていいか...。ただ手塚治虫さんの発想という...、僕らが若い頃SFだと思っていたものが現実のものになってきているところ、それが手塚さんのすごいところだと思います。もうちょっと長く生きていてほしかったと思いますよね。僕はパリの日仏文化サミットに手塚さんも参加されて、あなたのお母さんも一緒に来られて“初めて外国旅行に連れてきてくれたんですよ”と言って嬉しそうなねぇ。あの元気な手塚さんからして...。最後に一言がまとまらなくて終わってしまたけれど...」手塚「もしまだ手塚治虫が生きていて、夜中富田先生に電話をしてきて“このアニメの曲、一週間ぐらいで”って言われたら富田さん、お受けになりますか?」富田「いや、今はもう便利な時代で留守電というのがあって(笑)都合のいいときだけ相手に電話するけど、手塚さんには一番に返事をしますねぇ。でも夜中に起こされないですむんで(笑)」手塚「(笑)分かりました、ありがとうございました」


槇原敬之さん 上岡裕さん

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