手塚「富田さんは『ジャングル大帝』『リボンの騎士』『どろろ』といった手塚のテレビアニメの音楽をご担当されました。最初に手塚と出会ったのはいつ頃ですか?」富田「東映動画なんですよ。まだ若い頃にアドバイザーをされているときです。『シンドバットの冒険』の音楽を担当したとき。僕も学生から社会の仕事をするようになってすぐです。忙しい方ですからたまたま見えているときにお会いしたので、ゆっくり手塚さんと話すと言うことはなかったですね。『ジャングル大帝』の打ち合わせの時、それまでテレビというのは“電気紙芝居だ、ちゃちなもんだ”というように一般的には評価が低かった頃、アニメの音楽も予算がなくて、いい加減にごまかすという漫画が多かったのです。でも手塚さんは“これじゃダメだ、シンフォニックな音楽にお金をかけてアニメにもつける”と仰って、雄大なアフリカを思わせる音楽を作りました」
手塚「1964年、ちょうど私が生まれた年です。この『ジャングル大帝』から日本のカラーアニメーションが始まりました。お話がきたのは前の年だと思いますが...」富田「その前に『新宝島』という短編をやらせていただいたのですが、普通手塚さんぐらいのクラスになるとマネージャーとかそう言う人たちから電話がかかってくるんですが、手塚さんて自分で電話かけてくるんですよ。だからこっちはビビっちゃうわけです。“こういう構想で...やりませんか?”いやだとは言えませんよね(笑)そんな調子で『ジャングル大帝』も依頼されました。それで忙しい方だからマネージャーがスケジュール作ってその時間に虫プロへ行きました。そうしたら病院の待合室みたいなところで皆さん待ってらっしゃる。打ち合わせ場所もなくて、廊下にがたがたのピアノがあってそこで打ち合わせることになりました。そこで手塚さんがいろんなLPを...。ちょっと話は変わりますが、音楽を愛する手塚さんにしてはひどいLPの扱いでした」手塚「はいはい」富田「僕も乱雑な方なんだけど、後で分からなくなると困るのできちっとしてる方なです。要するジャケットと中身が別々になっいるんですよ」手塚「そうですねぇ。確かに父の書斎のレコードもバラバラに積み上げてあって、埃をかぶって大変な扱いをされてました」富田「またあの頃の虫プロは道路が舗装されていなくて、畑が多かったんです。だから風が吹くと埃が入ってくるわけです。積み上がったLPの中から“このへんかな”って引き出すときに“ジャリジャリ”という音がするんです。それでチャイコフスキーの4番か5番かな、“これが『ジャングル大帝』のイメージに合う”と」手塚「それを聞かせたんですか」富田「ところがね、今のCDと違って埃も一緒に音を拾うでしょ。だから針をおろした瞬間にバリバリっとすごい音がしてその中から音楽が聞こえてくると言うような」手塚「ひどいですね」富田「でもイメージは分かりますよ。それで僕にもっと何か伝えたいと思って、終いに自分でピアノを弾き出して、それが結構ミスタッチが多かったけれどイメージは伝わってくるんですよ」手塚「それはチャイコフスキーに近い感じですか?」富田「そうです。“こういう雄大な感じ”なんて、結構弾かれるんですね。ご家庭ではどうでした?」手塚「学生時代に独学で弾けるようになって、元々音感が良かったので譜面が読めなくてもレコードを一回聴くとコピーが出来ました。家でもたまに弾いていました」富田「でも僕ら作曲仲間で、僕以外誰も手塚さんのピアノを聴いていないんですって」手塚「結構漫画家の先生方は、余興でアコーディオンを弾いたとか、聴いていますが。音楽家の前で弾くのはちょっとというのがあったのかもしれませんね」富田「その頃カセットが出始めの頃だったので録音しておけば良かったと思ってね。それで弾き終わるとあの人照れるのね(笑)それで僕はあの『ジャングル大帝』の曲を作ったわけです」
|