手塚「私の父、手塚治虫の作品で、一番印象に残っているものは?」竹宮「やっぱり最初頃は『リボンの騎士』であるとか『鉄腕アトム』なんですね。近所のお姉さん達に見せて貰った本の中にそれがありました。『リボンの騎士は』色が綺麗で、どなたよりも豊富な色と言うんですか、そういう感じでした。その後、あれが指定色だと知って本当にビックリしました」手塚「なるほど...」竹宮「網のパーセントで指定すると言うのを聞いて驚愕しました」
手塚「竹宮さんは手塚治虫が出版していた『COM(コム)』に投稿されて、1967年には『ここのつの友情』で月例新人賞に佳作入選されています。そのような経緯があるので、父、手塚治虫とも交流があったのではないかと思います。手塚治虫本人と初めて会ったのはいつ頃ですか?」竹宮「実はなかなかチャンスに恵まれませんでした。『COM』の編集部を訪ねたこともありましたが...。最初にお会いしたのは、手塚先生のところへアシスタントとして行っていた女性、友人の友人なんですけども、一緒に映画を見たり泊まりに行ったりしていました、その人に“自分の作品を投稿したいのでアシスタントがほしい”と言われてアシスタントになりました。ある日彼女が手塚プロで仕事を済ませて戻ってきたときに“手塚先生が映画に行かないかと言ってるの。『王女メディア』というの。一緒に行かない?”“え、私も!!”と言うことになって、そこで初めてお会いしました」手塚「偶然の偶然なんですね」竹宮「だから群れの中の一人だったのです(笑)ただ名前は覚えていてくださったみたいで“あなたなのね”とは言ってくださいましたが、それっきりで。映画が終わったあと手塚先生が喋っていらっしゃるのを一所懸命近くで耳を大きくして聞いていたという感じですね(笑)」手塚「その時の印象、実物が目の前にと言うのはどういう感じなのですか?」竹宮「その時手塚プロの近所にあったパチンコ屋さんの前でパチンコ玉を拾ったのです。すごく縁起を担ぎまして、今でもそれを持っています(笑)お会いしたときはなにも声はかけられず、他の人と会話しているのを聞いていました」
手塚「その後デビューされて、人気少女漫画家となって、手塚と会う機会もあったと思います。覚えていらっしゃいますか?」竹宮「テレビの番組でお会いしました。手塚先生が“竹宮さんは石森君のファンなんだよね”て言われました。確かに私は石ノ森先生のところに同人誌がありまして、そこに入れていただいていました。そういうこともあって、そういうふうに言われると舞いあがって、言い訳して(笑)“私はどちらの先生も好きなんです”というのが精一杯でした(笑)そういうふうに言われるとというのにビックリしました」手塚「私の父は後から出てくる才能のある方には非常にライバル心を持つタイプだと聞いていますから、そういうことを言ってしまったのかもしれません(笑)竹宮さんの作品に対してお話しすることはありましたか?」竹宮「『Passe'
Compose'』 と言うイラスト集の帯にお言葉をとお願いしました。その時に“私にとってのこの本は一里塚だろう”と言われました。その先がまだあるでしょうと言うことですよね。何となくまとめの時期が来たかなという感じで作っていただいた本だったんですけども、“先があるでしょ”と言われたことにものすごく意識しました。石ノ森先生が言ってくださる言葉とは違う何か。もっと離れてるが故の厳しさみたいなものを感じました」
手塚「竹宮さんにとって手塚治虫はどういう存在ですか?」竹宮「今この世界まで広がっていった日本のマンガの最初の部分を作ったという感覚が強いですね。もちろんその前にもマンガはありましたが、今の形の最初を開いた方だなと思っています。手塚先生がいらっしゃらなかったらマンガはこういう方向に来なかっただろうし、私も漫画家になっていたかどうか分からない...、源流だなと思います」
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