EarthDreamingロゴ 放送内容
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4月 ラレコ
4月
~5月
パク・トンハ
戎本みろ
5月 白井貴子
5月 北澤肯
5月
~6月
中島まゆみ
6月 杉浦邦俊
6月
~7月
伊藤遊
7月 高津玉枝
7月
~8月
高木俊太
村上由里子
8月 石川雅之
8月 大野由紀恵
9月 藤田志穂
9月 宮腰義仁
10月 時東ぁみ
10月 森摂
11月 竹宮惠子
11月 槇原敬之
11月
~12月
冨田勲
12月 上岡裕
12月 川端由美
12月 2008年を
振り返って
1月 赤塚りえ子
1月 中島まゆみ
1月 箕輪弥生
2月 イェンス・イェンセン
2月 武田双雲
3月 郷慎久朗
3月 椎名法子
3月
~4月
森摂
11月1日ゲスト:漫画家竹宮惠子さん

竹宮惠子1  手塚「竹宮さんがマンガを読んだのはいつ頃ですか、またその作品は?」竹宮「はっきり記憶に残ってはいないのですが、『冒険ダン吉』と『てるてる姫』の単行本を持っていました。でも最初がどれだったかは分からないのです」手塚「小さい頃からご自宅にはマンガが...」竹宮「親しく読んでいました。それは身近に小さな子供の友達がいなくて、近所のお姉さんとか散髪屋のおじさんとかそういう人と仲良くしてたせいじゃないかと思うんですが(笑)」手塚「ご両親はマンガに対してうるさく言うことはなかったのですか?」竹宮「うちの親はそういうことはなかったです。マンガは子供が好きで当然のことという感じでした。ただ勉強の妨げになるとは思っていたようです」

 手塚「それだけマンガに親しんでいると見よう見まねでマンガを描き出しますが、いかがでしたか?」竹宮「それは当然描いていました。広告の裏などに絵を真似て書くという遊びが多かったですね。五つ、六つの頃から。そんな写真も残っています(笑)」手塚「ストーリーのあるマンガを画いたのはいつ頃ですか?」竹宮「コマを割って物語として描き出したのは中学に入ったばかりの頃でしょうか」手塚「その頃回りでマンガを画いていた子はいましたか?」竹宮「ほとんどいないです。あの、人には見せませんでした。自分が読んで満足するものだけ描いていました」


竹宮惠子2 手塚「私の父、手塚治虫の作品で、一番印象に残っているものは?」竹宮「やっぱり最初頃は『リボンの騎士』であるとか『鉄腕アトム』なんですね。近所のお姉さん達に見せて貰った本の中にそれがありました。『リボンの騎士は』色が綺麗で、どなたよりも豊富な色と言うんですか、そういう感じでした。その後、あれが指定色だと知って本当にビックリしました」手塚「なるほど...」竹宮「網のパーセントで指定すると言うのを聞いて驚愕しました」

 手塚「竹宮さんは手塚治虫が出版していた『COM(コム)』に投稿されて、1967年には『ここのつの友情』で月例新人賞に佳作入選されています。そのような経緯があるので、父、手塚治虫とも交流があったのではないかと思います。手塚治虫本人と初めて会ったのはいつ頃ですか?」竹宮「実はなかなかチャンスに恵まれませんでした。『COM』の編集部を訪ねたこともありましたが...。最初にお会いしたのは、手塚先生のところへアシスタントとして行っていた女性、友人の友人なんですけども、一緒に映画を見たり泊まりに行ったりしていました、その人に“自分の作品を投稿したいのでアシスタントがほしい”と言われてアシスタントになりました。ある日彼女が手塚プロで仕事を済ませて戻ってきたときに“手塚先生が映画に行かないかと言ってるの。『王女メディア』というの。一緒に行かない?”“え、私も!!”と言うことになって、そこで初めてお会いしました」手塚「偶然の偶然なんですね」竹宮「だから群れの中の一人だったのです(笑)ただ名前は覚えていてくださったみたいで“あなたなのね”とは言ってくださいましたが、それっきりで。映画が終わったあと手塚先生が喋っていらっしゃるのを一所懸命近くで耳を大きくして聞いていたという感じですね(笑)」手塚「その時の印象、実物が目の前にと言うのはどういう感じなのですか?」竹宮「その時手塚プロの近所にあったパチンコ屋さんの前でパチンコ玉を拾ったのです。すごく縁起を担ぎまして、今でもそれを持っています(笑)お会いしたときはなにも声はかけられず、他の人と会話しているのを聞いていました」

 手塚「その後デビューされて、人気少女漫画家となって、手塚と会う機会もあったと思います。覚えていらっしゃいますか?」竹宮「テレビの番組でお会いしました。手塚先生が“竹宮さんは石森君のファンなんだよね”て言われました。確かに私は石ノ森先生のところに同人誌がありまして、そこに入れていただいていました。そういうこともあって、そういうふうに言われると舞いあがって、言い訳して(笑)“私はどちらの先生も好きなんです”というのが精一杯でした(笑)そういうふうに言われるとというのにビックリしました」手塚「私の父は後から出てくる才能のある方には非常にライバル心を持つタイプだと聞いていますから、そういうことを言ってしまったのかもしれません(笑)竹宮さんの作品に対してお話しすることはありましたか?」竹宮「『Passe' Compose'』 と言うイラスト集の帯にお言葉をとお願いしました。その時に“私にとってのこの本は一里塚だろう”と言われました。その先がまだあるでしょうと言うことですよね。何となくまとめの時期が来たかなという感じで作っていただいた本だったんですけども、“先があるでしょ”と言われたことにものすごく意識しました。石ノ森先生が言ってくださる言葉とは違う何か。もっと離れてるが故の厳しさみたいなものを感じました」

 手塚「竹宮さんにとって手塚治虫はどういう存在ですか?」竹宮「今この世界まで広がっていった日本のマンガの最初の部分を作ったという感覚が強いですね。もちろんその前にもマンガはありましたが、今の形の最初を開いた方だなと思っています。手塚先生がいらっしゃらなかったらマンガはこういう方向に来なかっただろうし、私も漫画家になっていたかどうか分からない...、源流だなと思います」

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11月8日 ゲスト:竹宮惠子さん

竹宮惠子3 手塚「竹宮さんの作品には『私を月まで連れてって』『 地球 ( テラ ) へ・・・』『アンドロメダストーリーズ』などSF作品が多くあります。SF世界は昔から興味があったのですか?」竹宮「もちろん『鉄腕アトム』などマンガの中ではよく見ていました。ただSF小説を読める状況ではなくて、ほとんど読んでいません。児童文学の中にそういうものが少しありまして、それをすごく不思議な話だなと読んだ覚えがあります。それは双子の一人宇宙船に乗せて高速の旅行に行きます。それで戻ってくるとと一人は若いまま、もう一人は年を取っていると言う実験です」手塚「現実的ではない、空想の世界ですよね」竹宮「空想と言うより科学的根拠に基づいた何かだと思っていました。その科学的な勉強が出来ていないとSFは書けないと思っていました。でもその頃科学マンガという名前で結構たくさんありました。それを見てもしかしたら書けるかもしれないと思いました。中学の頃に書きためた中に石ノ森先生の設定に近いようなSF冒険ものを描いています。今でもそれは残っています」

 手塚「少女漫画誌に描いていらっしゃいますが、その頃SF的なものを入れたときに、読者や編集者の反応はいかがでしたか?」竹宮「まず打ち合わせをするときに“SFはダメだから”という大前提がありました(笑)」手塚「それは?」竹宮「“女の子は理解できないから、人物関係しか理解できないから”それってどうかと思いましたけど(笑)」手塚「『地球へ・・・』は男性マンガ誌に描かれたんですね。あれを描かれたのはまだ1970年代でしたが、あの時代に西暦3000年が舞台の作品をどういう思いで描かれたのですか?」竹宮「環境のことを強く言おうと思ったわけではないのですが、あの頃は石油ショックなどがあって先行きは危なそうという感じがありました。人間というのは反省が出来ないと感じていました。それでいろいろ人間について考えているうちに出来た作品です」手塚「最近の読者の方から反応はありますか?」竹宮「皆さんが口をそろえて言うのは“本当に考えないと怖い”と言うことです。“身近なエコから”というのですが、それだけではなく“他者との繋がりを考えはじめている”という手紙を頂いて、すごく嬉しいですね」


竹宮惠子4 手塚「竹宮さんは2000年に京都精華大学マンガ学部の教授に就任され、漫画家として日本初の専任教員となり、現在は学部長に就任されています。大学でマンガを研究すると言うことを竹宮さんはどのように考えていらっしゃいますか?」竹宮「私が新人の頃に大学でマンガ研究部が沢山生まれました。私は東大、駒場のマンガクラブの人に呼ばれてお話をしにいきました。そこで“大学でマンガを教えるというのはどうですか?”と聞かれたことがあります。その時私は“そんなこと無理です”ときっぱり言いました。でも大学で教えてみませんかと言われたときに“もしかしたら今だったら、自分が教えることが出来るなら、やってみてもいい”と思いました。それと研究する、文書化して残すと言うことに意味があるのではないかと思い始めました」

 手塚「9月に京都で国際漫画サミットが開催されました。竹宮さんは養老孟司さんと対談されましたが、このようなサミットが開かれるということをどのように感じていらっしゃいますか?」竹宮「今は漫画家さん達だけという形でやっていますが、もっと業界そのものが参加して盛り上がるべきではないかと思っています」

 手塚「今後の活動についてお教えください」竹宮「今はマンガを画くことが出来ない状況です。大学に時間を取られてしまって。ですから今は個展を毎年2回行っています。それがファンの皆さんとの唯一の繋がりだと思っています」


森摂さん 槇原敬之さん

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