仁志田さんは1942年福島県生まれ。慶応大学医学部を卒業後アメリカに渡り、シカゴ大学やジョンズホプキンス大学で、小児科の中でも特に未熟児・新生児医療の分野を研究されました。
手塚「仁志田さんは東京女子医科大学、母子医療センターでどんなお仕事をされていらっしゃるのですか?」仁志田「主な仕事は病気や未熟の赤ちゃんの医学的な管理と、そのお母さんの指導です。また生まれる前の胎児から関わりますので産科の先生や、手術をするような赤ちゃんもいますので外科の先生と一緒に管理しています。私はその所長ということで、全体の管理・責任と、小児科の専門医として若い先生方、看護婦さんと赤ちゃんを診せてもらっています」
手塚「なぜ小児科医を選んだのですか?」仁志田「両親も医者なんです。おふくろが眼科、親父が内科でした。ですから小さい時から両親の仕事を見て、医者になるということは自然に思っておりました。そして子供のイメージの医者は小児科医ですよね、それで。もう一つは大学で仕事をするとは思っていなくて、両親の後を継いで田舎で医者になると思っていました。そうすると外科などの専門医は大きな病院でなければ出来ないので、内科を選び、その中の小児科に自然になったと言うことですね」
手塚「先生が学生の頃、勉強を始めた頃と今とでは小児医療はどのように変わりましたか?」仁志田「僕は1972年に新生児の勉強をアメリカで始め、74年に帰国しました。その当時の日本はようやく近代的な新生児医療が始まった頃でした。それが今、日本の新生児医療は世界のトップのレベルになりました。具体的な数字で言いますと、新生児の死亡率は1000人に対して2人。今のアメリカではそれが4人、2倍です。ですからアメリカを抜いてしまいました」手塚「海外から先生の研究についてお話などを聞きにいらっしゃるのですか?」仁志田「今から7年前、アメリカの議会で、検討委員会が作られました。それは日本の新生児医療と乳児の死亡率が世界一になったからでした。それでアメリカから私の所に見学に来ました。技術的なこともお応えしましたが、僕がやっている“温かい心を育む運動”について話しました。それは小さな赤ちゃんでも、病気の赤ちゃんでも今の医療で助けることが出来るならば、簡単に切り捨てないで頑張ろう。それは共に生きようと言うことです。お金が掛かる、でも“これだけ豊かな日本でお金が掛かるということで治療をしないということは文明国じゃない”と言う考えでみんなが一所懸命頑張っているから日本が世界一になっているということです」
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