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6月19日ゲスト:浦沢直樹さん |
手塚「漫画家の浦沢さんは1960年東京生まれ。1981年に小学館新人コミック大賞に入選し、翌年SF作品『BETA!!』でデビュー。女子柔道選手を主人公とした『YAWARA!』、第3回手塚治虫賞、マンガ大賞を受賞されたサスペンス『MONSTER』。またカルト集団との闘いを描いた『20世紀少年』などのヒット作品があります。今回は浦沢さんにとって2度目となる手塚治虫文化賞、マンガ大賞を受賞された作品『PLUTO(プルートウ)』についてお伺いしていきます。この作品を描くきっかけは?」浦沢「アトム生誕年に合わせたイベントがあった時に、何かやってみないかという話が来たんです。その時に集まっていた編集の人たちに“地上最大のロボットを真っ向から今の形でやったらこうなります、というのを描く人はいないのかな”とポロッと言ったら“あんたやりなさい”ということになって...」
手塚「数あるアトムの話の中で“地上最大のロボット”を選ばれた理由は?」浦沢「5歳ぐらいの時に僕の親が買ってきたんです。でそれを模写して“手塚治虫”とサインまで練習してたんです。あと、アニメの再放送でこれを見た時に、自分の頭の中にあるシーンがなかったんです。なんでこんなに短いんだろうと思って原作本を読んでみました。多少はあったんですが、全部ではなかった。どうやら30年ぐらいの間に行間が入っちゃったんですね」手塚「あ〜、なるほど。それでこの作品につながるわけですね」 |
手塚「手塚プロの反応は?」浦沢「まぁ〜、いんじゃないのかなぁ〜という感じで、手塚眞さんに言っておきます、とのことでした。が、眞さんから“やめてください”と言われてしまいました(笑)」手塚「その話は初めて聞きました(笑)」浦沢「だろうな、そりゃそうだよね、と言ってたんですが、もう一押ししてみよう思って、ラフのデッサン画などを送ってみたんです。それでお会いすることになって、やっとOKになったんです。でもここまでやってくるとこれは自分がやらなくてはいけないという思いに変わってきましたね」
手塚「実際、描き始めてのご苦労は?」浦沢「基本的にいくら描いても達成しないんです。OKがでない...」手塚「自分の中で...」浦沢「自分の中でなのか、手塚先生なのか...マンガって描いてると、このぐらい、この程度で、という感じで次ちゃんとやるから許してね、みたいなことがあるんです(笑)毎回全力ではやってるんですが...それが、僕ら“まぁ〜いいか、ライン”と呼んでるんですが、それがないんです。いつも“その程度ですか”と言われているような気がするんです(笑)一番ひどかったのが、いよいよ書き出すって時に全身にじんましんが出来ちゃって、みみず腫れが出来ちゃって“Help
me”ってでてるよみたいな(笑)それぐらいプレッシャーがありました」 |
6月26日 浦沢直樹さん |
手塚「今週は浦沢さんがどういったキャラクターかということをお聞きしようと思います。幼少時代はどんなお子さんでした」浦沢「幼少時代(笑)親がバタバタしていてあっち行ったりこっち行ったりしていました(笑)それでおじいちゃんおばあちゃんの所にいたこともあって、その時にマンガあって、描き始めたような気もします」手塚「それは幼稚園の頃ですか?」浦沢「幼稚園行ってないんです。だいたい5歳ぐらいの頃で、すごく5歳が長いなぁ〜と思ったんです。いつまでたっても5歳だったんです(笑)でず〜っと手塚先生の絵を模写していました」
手塚「おじいちゃんおばあちゃんは、子供にマンガを与えることに抵抗無く...」浦沢「子育てに関心が無いという...親もそうでしたが(笑)ほっときゃ育つと思ってるような。基本的に父親はマンガ好きだったんですよ」手塚「お父さんと子供では読むマンガが違うと思うんですが」浦沢「昔はそれほど文化を分けていなかったですね。テレビなどもそうですが、親も子供もそういう物は共有していましたね」 |
手塚「一番最初にマンガを描かれたのが、その5歳の時...」浦沢「で作品として現存しているのが小学校2〜3年の時にノートに書いたものです。暗いね(笑)」手塚「その頃に浦沢直樹のストーリーマンガの原点が出来ていたわけですね」浦沢「一人で雑誌を作っていたんです。巻頭に重めのがあって、ちょっと人気めのがあって、4コママンガ、ギャグコーナー、次週予告というのが残っているんです」手塚「その頃から漫画家になろうと思っていたわけですか?」浦沢「なろうと思っていなくて。新人賞を取るまで思っていなかったですね」手塚「あ、そうなんですか。でもずっとマンガを描き続けていたんですよね」浦沢「ずっと描いていたんですが、ある意味プロにならなくても描いていられるんで...」
手塚「新人賞をとったのは...」浦沢「大学の就職活動の時です。内定もでていたんですけど...で会社訪問の一環の中に小学館もあって、ついでに原稿も持って行ってたんです。そしたら“新人賞出してみない”と言われて“あっ、ハイ。お願いします”って。そしたら入選しちゃったんです。でもあんまり悩まなかったなぁ〜。1年やってダメだったらやめようと思って...」手塚「プロとしてスタートしてどうでした」浦沢「小学館て大メジャーじゃないですか。僕ものすごくマイナーだったんですよ(笑)で、メジャーになろうたって、なれないですから、どういう自分のスタンスを作ったら、この世界で立ち位置が出来るんだろうと葛藤していました。ラブコメ描いてくれとも言われましたが、それは無理だし...で試行錯誤したあげくここで一発、名前を売ってしまうのも手かなと思って『YAWARA!』というのを自分で企画して描きましたね。ところがその時点ですでに長いキャリアがあるわけですよ、5歳から描いているわけですから。あの浦沢が女子柔道マンガを描くという企画自体に自分でくすくす笑っていたんです」手塚「自分に対する挑戦みたいなものもあったんですね」浦沢「僕は根っからの手塚っ子だったんですが(笑)一方で梶原ものを見てるんです。手塚マンガは劇場映画みたいで、テレビドラマとして梶原ものを見てたんです。で、ずっと手塚系の攻め方でやっていたんですが、『YAWARA!』は梶原ものでやってみたんです」手塚「国民的なマンガで、達成感はあったんじゃないんですか」浦沢「そっからまた苦悩が...自分はこうじゃないんだけどという。大きな誤解で売れ出しちゃったんで」
手塚「実際、次にチャレンジする作品についてはどうでした?」浦沢「次じゃなくて同時進行で『マスターキートン』を描いていたんです。これによって僕の作家像が見えてこないだろうかと思って。でも『YAWARA!』のファンから“浦沢さんそっくりの漫画家いるので気を付けてください”というファンレターが来ましたね(笑)」 |
7月3日 浦沢直樹さん |
手塚「最初に手塚作品と出会った『鉄腕アトム』それまで手塚治虫という存在はご存じなかったんですか?」浦沢「いやもうね、ディズニーみたいなものでしたね。中央に鎮座しているという方でしたね」手塚「他の大人っぽいマンガを読んでいた浦沢さんにとっては、アトムやジャングル大帝を子供っぽく感じたことはありませんでしたか?」浦沢「実は小学校の頃、ちょっと古いなと思った時期あるんです。劇画が全盛になってきてね。お話聞くと手塚先生も悩んでいらしたみたいですが...。でもね『どろろ』とか見ているんですね。面白いと思ってね...。で中学1年の時に兄が“火の鳥を読んだ方がいいぞ、特に鳳凰編な”と言ったんです。で買って読んだんです。それを読んで大変な騒ぎになったんです(笑)読み終わって1時間ぐらい黙ってたんじゃないかな」手塚「それはなんで?」浦沢「ビックリしたんでしょうね。こんなにすごいのというのが筆舌に尽くしがたくて。それが未だに続いているんです。よく言うんですが、あの時に北極星になっちゃったんだって...(笑)目指す所はそこで、そっち向かって歩いていれば間違いないというよな...生き方の、志向の指針というような感じでしたね。で同時期にボブ・ディランの『Like
a Rolling Stone』を聞いて同じような状態になっているんです(笑)だから僕にとってボブ・ディランと手塚さんはがらがらと雷鳴が轟く感じなんです」
手塚「それ以降の手塚作品はいかがですか?」浦沢「1969年から70年にかけて手塚先生の絵が変わってるんです。火の鳥で言えば未来編から宇宙編を通過して鳳凰編ですね。あれほどの巨匠なのに違うペンタッチを身につけようとしてるんです。それを見たのも衝撃で、良く真似しましたね。特に口の線が震えているんです。この震えがたまらないと僕も口を描く時に震わせているんです。でも今になって思うと、僕も目、鼻といい顔を描けるとフィニッシュで口なんです。それで決まるんです。だから緊張されてたんですよ、きっと」手塚「そういう風に父の絵を見ていなかったですね。すごい話を聞いちゃったなという気がするんですけど...」浦沢「(笑)」 |
手塚「漫画家になられてから手塚治虫にあったことは?」浦沢「接近遭遇ですね。出版社のパーティーに、現在プロデューサーの長崎さんとまだ新人の頃に行ったんです。手塚先生がスゥーと歩いてらしたんです。でウワッと思ったんですよ。で長崎さんは手塚先生の前任の担当だったんです。でも先生は長崎さんの顔を見たら逃げたんです(笑)“僕もう担当じゃないですよ”と言ったら“あ〜、そうか”と立ち止まられてこちらに歩いてらしたんです。紹介して貰おうと思ったんですが、先生は“今、すぐ仕事に戻るから”と言って行ってしまわれたんです」手塚「(笑)じゃ〜、挨拶する暇もなく...」浦沢「そうです(笑)」
手塚「浦沢さんにとって、手塚治虫というのはどういった存在ですか?」浦沢「ものすごく近いような、遠いような存在です」手塚「プルートウを描いていてもそうですか。背後にたたれている感じ...」浦沢「そうですね。やっぱり厳しいですね。滅多な事じゃOKは出ないと言うか、OKは出さない人なのかもしれないですね」手塚「そうかもしれないですね。自分にもOK出さないし、他人にはもっとOK出さないような気がします(笑)」浦沢「そんな気がしますね(笑)“どきなさい、私が描く”と言われそうな気がして(笑)考えれば考えるほどプレッシャーですね。でも面白いですけどね(笑)」手塚「面白いと思ったら勝ちですね(笑)」 |
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羽仁カンタさん |
石飛智紹さん |