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1月1日ゲスト:ヴィジュアリスト
手塚眞さん |
手塚るみ子「あけましておめでとうございます...」手塚眞「あけましておめでとうございます...と言いつつ、もう何度も挨拶しましたよね(笑)」るみ子「手塚家は元日に家族全員が集まるというのが習わしで...」眞「同じ手塚という名字で、まだ気づかれていない人がいるかもしれませんけれど、兄でございます」るみ子「私の兄です。兄弟が対談するということは非常にまれなことですけど...」眞「何話していいか分からない(笑)」るみ子「私としても進行しずらい状況です(笑)ま、お正月ということで...」眞「こちらもアットホームな気持ちで来てますので、お聞きの皆さんもそういう気持ちでお付き合いください」
るみ子「父、手塚治虫が生きていた頃のお正月で一番印象に残っているのは?」眞「僕はわりと昔のことをすぐ忘れちゃうんですけど、昔は旅行に出てたみたいだよね。覚えてる?」るみ子「全然覚えていない(笑)」眞「それが恒例だったみたいですね。お父さんと旅行に行った想い出は結構あるんですよね。写真も残ってるし、でもあの忙しいお父さんがいつこんなに旅行したんだろうと考えてみたら、毎年のお正月に行ってたんだと...」るみ子「お正月は特別な感じがね、必ず仕事を休んで、家族でいたというの覚えているんで」眞「クリスマスとお正月はいたよね」るみ子「クリスマスは遅れてきてましたけど、お正月は必ず家にいたなぁという...」眞「クリスマスは家族で食事に行くんですよね。その食事の所に家族が先に行って、前菜などを食べてると、遅れて父親がやってくるというパターンが多かったですよね。食事をし終わって、また職場に戻ると言う」るみ子「一瞬だけいる感じで」眞「正月は大晦日から家に居たのかなぁ〜」るみ子「いたと思う。テレビ見てたのを覚えてる」
眞「今でも印象的なのは年賀状ですね」るみ子「私もそれは。すごくいっぱいくるんですよね」眞「半分以上ファンレターだったりするんだけど、段ボール箱で届けられてくる。僕らは子供の頃からそれを見てるじゃない、そうすると年賀状って何千枚も来るもんだと思ってるよね(笑)でもいざ自分たちが社会に出て年賀状ってね、数十枚とかね。年賀状って少ないなぁ〜とね」るみ子「年々減ってきたりとかね」眞「そのお父さんの所に来た中から家族の分の仕分けをするのが楽しかったね。普通年賀状って、知り合いから来るものだけど、全然知らない人から来るというとても不思議な家だった」るみ子「しかもファンの方が丁寧に絵を描いてくださってるし、後漫画家の先生から来る年賀状もその先生の絵が描かれているから、それを見るのも楽しみだった」眞「漫画家の手塚治虫の家にいるのにも関わらず、他の漫画家の方からの年賀状が嬉しいという、普通と逆でした(笑)」
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手塚るみ子「先月12月18日に公開になった映画『ブラックジャック ふたりの黒い医者』の監督をされたので、お話を聞こうと思うのですが、テレビシリーズの監督をやってるんですよね」手塚眞「もう1年以上」るみ子「これそもそも監督をという話が来たきっかけは?」眞「2003年に遡るんですよ。2003年は鉄腕アトムの誕生日があってものすごく社会的に盛り上がったじゃないですか。ところがその陰で、陰っていったら変なんだけど、ブラックジャック連載30周年だったんですね。鉄腕アトムの方が勢いがあったので、何か企めないかなと思って。僕が最初に思いついたのは実写の映画だったんですね。でその準備を進めてたんですけど、そうこうしてる時にテレビ局から“テレビアニメでブラックジャックやりませんか”という話が来たんですね。僕の所に監督してくださいという話はなかなか無くてね、妙に嬉しくてね、自分が選んだわけじゃなくて、人が選んでくれたんで。それが思いのほか好評で続くことになて、その結果として劇場映画をやろうということになったんです。そもそも最初に実写でやろうと思ったのにアニメ映画なのかと思ったんですけど、これも自然の流れだからそれに自分が逆らっちゃいけないと思って。実写の方は未来に伸ばして、アニメの方をやろうということで今回の映画になったんですね」
るみ子「時間的に子供が見てる時間なので何かを意識していかなければいけないと思うのですが、その辺は?」眞「昔の虫プロの、自分たちが生まれて育ったね、ことを思い出したんですよね。鉄腕アトムもジャングル大帝も原作と違うんですよ。当時、僕も原作読んでて子供ながらに“子供むきだなぁ〜”と思いながら見てたけど、でも結局テレビでやったから人気が広く伝わるようになって、今でも愛されるキャラクターになってるわけですよね。それに比べるとテレビでやらなかった漫画でもいいものがいっぱいあるんだけれど、ちょっと人気がなかったり、知られてなかったりするというのがとっても悔しいなと思って。だからテレビでアニメになるということは作品としていかに良いものを作るかという以上に、原作をたくさんの人に楽しんでもらうための方法じゃないかな思いました。いろいろな制約がある中で原作と違ってしまうのはしょうがないと割り切っていこうと、それはうちのお父さんが多分割り切ってやってたんだろうと思うんで、父親に習って僕も割り切ろうと、それで良いものが出来ればそれにこしたことはないなと思ったんで」
るみ子「今回の映画は個々のストーリー...ま、一つ一つのエピソードは原作にあるんですけど、全体的にはオリジナルなんですよね。テレビシリーズと劇場版の違いは?」眞「テレビは30分でお話を終わらせなくてはいけないですよね。実を言うと原作の一つのエピソードをそのまま映像にすると10分ぐらいで終わっちゃうんですよ。だから30分にするために色々付け加えているんです。それが劇場映画だと90分なんですね。さらにその3倍作らなくちゃいけない。これはどんなに頑張って一つのエピソードを広げても限界があるし、あまりに水増しになっちゃう。そこで沢山のエピソードを入れてそれを無理なくつなげるための大きな話を作りました」
るみ子「この中に出てくるキリコの役に鹿賀丈史さんを起用していますが、すごくぴったりですね、ビックリしました」眞「僕もビックリしました。誰にしようと考えた時にいきなりひらめいたんです。他のスタッフやプロデューサは“エッ”って感じだったんだけど、監督がそんなに言うんだったらということで決まりました。でも正直そこから本当にはまるんだろうかと不安になりましたが、予告編用に声を録った瞬間にゾクッとして、もうOKという感じですよね」るみ子「あとキャイ〜ンのお二人が出てたりとか...」眞「今回本編の前にピノコの話が、これは完全オリジナルですけど。こちらには竹下景子さんがナレーションで入っていたり、るみ子もね...」るみ子「私も呼ばれて参加して...実は手塚家フルキャストで出てたりして」眞「次女の千以子もね出てるしね。でもそれはでたらめに選んでいるというわけじゃなく、兄弟だからというわけじゃなく、実際るみ子も声の仕事をずっとやってるわけなんで、無理を言って今回やってもらいました。次女の千以子も演劇関係の事務所にいるということもあるんで、この業界で仕事をしているという意味で、出てもらったということです」るみ子「まぁ〜むしろ彼女の方が演技の経験があるんで、私が不器用で大変でした」眞「イヤイヤ、評判すごくいいんですよ」るみ子「ありがとうございます...」
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1月8日 手塚眞さん |
手塚るみ子「手塚眞監督の映画『ブラックキス』について聞いていきますが、これがどういう映画ですか?」手塚眞「ブラックジャックと全然関係のない話なんです(笑)実はブラックジャックよりも前に完成していたんです。内容は殺人事件に巻き込まれてしまった若い女性たちの物語です。とにかくこれは怖いです。自分で言うのもなんなんですが(笑)」るみ子「ある意味手塚眞の得意分野ではないかと。怖い映像を作らせたらみたいな...」眞「怖い映画って子供の頃から好きだったんで特別な思い入れでやってきましたからね。これはもうプロデューサーとかスタッフとか、皆に作る前に説明したんですけど、“僕は怖い映画は目をつぶってても作れるんでそこだけは気にしないでください。僕が絶対怖くしますから”て言ったんです」るみ子「そういうのは父が言ってるような感じに似てるなと言う気がします(笑)」眞「でも誰もなかなか信じられなくて、実際撮影している現場って怖くないじゃないですか。でも出来上がって第三者が見ると恐くて怖くて...」
るみ子「何か特別な映像のテクニックは使ったんですか?」眞「いや全然特別なテクニックはないんですよ。映画は手品と同じでタネがあるんです。そのタネというのは案外古くさいもんなんですよ。でもタネを明かしちゃうと面白くないんでこれ以上は...。ただ一つだけ言うと出演者にもスタッフにも撮影の時に犯人を教えなかったんです。それで違う意味で緊張感が出ました。僕だけが犯人を知ってるわけだから、まわりの僕を見る目が冷たかったですね」るみ子「俳優さんたちの演技プラス生身の感情を出ているわけですね」
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手塚るみ子「2006年、今年の活動、今後の予定は?」手塚眞「僕は正月に“今年はこんな年”というの決めるんです。去年は“来るものは拒まず、自分が関係持てるものは全部やろう”というチャレンジ精神あふれたものだったので、節操なくいろいろなことをやりました。今年は“ミステリアス”というのがテーマでやってみようと。ミステリーという一つのキーワードで、仕事をしていければいいなと思っています。それとここで爆弾発表一つしてしまうと、ブラックジャックは今年もテレビで続きますが、途中から装いが変わります。ブラックジャックのストーリにミステリーが加わります。犯人は誰か?犯人て何?という感じなんですけど(笑)結構壮大なストーリーに展開していきます」るみ子「長く続くとだれてしまいますからね」眞「原作のファン人はストーリーを知っていますから、結末が分かっているんです。そうではなくて、“こんな話見たことないよ、この後どうなるの”という意外性がもっとあったら面白いかなと思っています」 |
1月15日 手塚眞さん |
手塚るみ子「父親の作品とか事業を息子としてプロデュースすると言うことは自分の中ではどういう位置づけになるのですか?」手塚眞「2つの面があるんですけど、映画監督をするというのは、皆で一緒に楽しくものを作るということが好きだからです。父親の作品を手がけるというのは、父親と一緒に、ある意味家族ぐるみでものを作っているという感覚があって楽しいです。もう一つは僕ら以外の人からすると“えっ”と思うかもしれませんが、確かに手塚治虫は天才だし、世界的な巨匠で、偉大な人間で、作品は傑作ぞろいで人類の宝物だということは頭では分かっているんですけど、気持ちは家のものという(笑)父親のものという感覚でしかなくて、だから例えばどこかの家のお父さんが日曜大工で作ったもの“これ、お父さん作ったんです”というものと同じなんです。だからそこに構えがないんですよ。多分他のアーティストだったらものすごく構えたり、緊張したりすると思うんですが、そういうのがないんですよ。だから手塚治虫の作品を取りあげるのは僕の仕事の中ではかなり楽なんです。ですからそればかりをやってると温室育ちみたいで、楽すぎてつまんないので、あえて僕はヴィジュアリストということで父親のものとは関係ない作品を作っているということなんです」
るみ子「プレッシャーの件ですけど、浦沢直樹さんがゲストに来た時に“ダメ出しをされているようだ”とおっしゃっていたんですが、私もよく“手塚治虫をお父さんにもってプレッシャー無いですか?不便はないですか?”という質問をされるのですが」眞「それは特にはないですね。僕はヴィジュアリストという名前を使って自分の仕事を始めたのが前なので、どっちかというと自分の方が、“ヴィジュアリスト手塚眞”という方がプレッシャーになってる。例えば“手塚治虫さんの息子さんなのに、こんなものしか出来ないですか?”と人から言われても“そりゃ父親とは違いますからね”と言えるんですけど、“手塚眞さんともあろう者がこんなものしか作れないんですか?”と言われたらすごいプレッシャーに感じますね」
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手塚るみ子「手塚眞は“手塚眞”が出来上がっている間に父が亡くなったけど、私はまだ未完成、よく分からない状態の時にいなくなられちゃって、ぐちゃぐちゃになったという所があって、そのへんが違うなと思いますね」手塚眞「バカな話なんだけど、中学の頃にお父さんと一緒にハリウッドに行けたんですよ。ちょうど向こうでは“スター・ウォーズ”と“未知との遭遇”が並んでやってたのね。それでチャイニーズシアターでスターウォーズをお父さんと見たのね。その時に思ったのが“こんな経験2度とないぞ、ハリウッドでスターウォーズを手塚治虫の隣で見てるぞ”って興奮したの」るみ子「そんなふうに!!まだ子供じゃないですか」眞「これはすごいことだと思ったもんね」るみ子「私は子供の頃はただ“お父さん”という見方しかしてないから、“手塚治虫”とは見てないから...」眞「それで両方の映画を見て“どっちが面白かった?”って探り合いなんだよね、で結局意見は同じだった、それは“未知との遭遇の前半”その意気投合した瞬間がものすごく嬉しかった。手塚治虫と一致したというのが嬉しかった」
眞「最近思い出したこと、そうなんだと分かったことがあって、ビデオの軽い仕事だったんです。だから軽めに作っていたのを父親が見て、“もっと面白くした方がいいよ”って言ったんです。自分ではそんなに面白くする必要はないと思い込んでいた。それを言われた時に“父親は本当に一所懸命だったんだな。仕事の大小じゃなくて、やるからには人をとことん楽しませるという所に放り込まなくてはいけない”って。だからその言葉はエンターテイメント系のものを作っている時にふっとでてくる。もう一つお父さんの言葉で、直接ではなく、何かに書いたのを読んだんだけど、“自分はストーリーの作家である、でも息子には踏襲してほしくない”これは非常に微妙な言い方なんですよ。つまり“お前がどんなに頑張ってストーリーを考えても、自分にはかなわないんだぞ”と。ただこれは僕だけではなく誰だってかなわないんです。でも逆に“お前は映像が面白い、映像で語るものをやってほしいしそれは自分は出来ない”ということを書いていたんですよ。それはその時には分からなかったけれど、今僕がヴィジュアリスト言う肩書きでものを作っていると、皆さんが映像がいいですねという手塚治虫と同じ感想を言ってくれるわけですよ。その時に僕はこの道を選んでよかったなと思いますよね」るみ子「それは励みになりますよね、ライバル視されていると同時にすごく認めてもらっているという、しかも息子なのにという...」眞「だからるみ子に対してはもの作ってる同士ではない所での接し方があったけど、僕に対しては息子なんだけど、ものを作る先輩と後輩という接し方はとてもわきまえてくれていて、若い人を潰すまいという所は気を使ってくれていたと思うんです、それが息子であれ誰であれ」
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手塚るみ子「これまで兄である手塚眞がどんなふうに手塚治虫と接してきたか、また父に対してどう思ってきたかなど、妹ながらまったく知らなかった話が聞くことが出来ました。同じ“手塚治虫”を父にもつ兄弟でありながら、こうまで父に対する感覚が違うのかと驚きました。兄のように一読者や、一ファンのように父を“手塚治虫”としてみたことなど私は子供の頃には一度もなかったですから。ましてや中学生の頃なんて反抗期で、父親を“手塚治虫だ”と意識することすら私は拒否していましたから。
また兄がこれまで、“手塚治虫の息子”としてプレッシャーを感じたことがないという話もすごく意外で驚きました。私は“手塚治虫の子供”という特別な目で見られて、変なプレッシャーを感じていましたから...。
小さな頃から兄と父が対等に映画、アニメの話をしているのを見て、いつか自分も兄のように父から一人前に扱ってもらえるようになりたいなと憧れていました。遠回りしたせいでそれは叶わない夢となってしまいましたが、もし今父が生きていたら私は多分この番組に手塚治虫をゲストで呼んで、地球環境について話をしていたことでしょうね。それこそ他のパーソナリティではプレッシャーを感じて話せないようなことも、私なら遠慮なく突っ込んで聞いていたかもしれません。ま、それが実現出来なくて非常に残念です」
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2005年を振り返って |
鈴木重子さん |