EarthDreamingロゴ 放送内容
Line
4月 福岡 司
4月 坂本美雨
5月

鈴木幸一

5月 小野田淳乙
5月 石古暢良
6月 渡辺正行
6月 中村 透
7月 宮脇 昭
8月 羽仁カンタ
8月 鈴木祐美子、北本忍
8月 矢島 稔
9月 鈴木祐美子、北本忍
9月 原田麻里子
9月 上岡 裕
9月 森谷秀樹
10月 櫻田 厚
10〜
11月
矢野恭弘
11月 ECO & MUSIC
11月 山崎伸治
12月 疋田 智
12月 小林武史
12月 この1年を振り返って
1月 田中 優
1月 藤崎達也
1月 インドラ・グルン
1月 土居健太郎
2月 金子竜太郎
2月 里中満智子
2月 鮎川ゆりか
3月 青木一夫
3月 桐田哲雄
3月 愛・地球博1
湯本哲哉
3月 愛・地球博2
8月22日ゲスト:日本ホタルの会 会長 矢島稔さん

矢島稔1 矢島稔さんは多摩動物公園昆虫館を創設され、上野動物園水族館長を経て、多摩動物公園園長、東京動物園協会理事長を歴任され、現在、群馬県立ぐんま昆虫の森園長を勤められながら、日本ホタルの会の会長をされています。
 手塚「私は野生のホタルを見たことがないのです」矢島「僕は東京の手塚治虫さんの4つ下で、東京の中野出身です。それでもう僕の子供の頃にホタルはいなかったです」

 手塚「ホタルの会というのはどういう団体なのですか?」矢島「1992年10月に発足しました。私は多摩動物園の中に昆虫館を造り、その中にホタルの飼育場を作りました。それが31年前。それまで日本人は水槽に水を入れて幼虫を飼っていたんです。ところが四国とか九州にはホタルがすごい数いるんです。それで訪ねていきますと“水槽でやっていては限界がある、幼虫を見るには良いですが、そこでホタルにすることは出来ない”ということを教わりました。それでどうすればいいか聞いた所、ホタルは渓流に住んでいるので、渓流を作ってなるべく自然に近づけた環境を作って、そこで飼うことが良いんだという結論でした。それで多摩動物園に、外に限りなく渓流に近い物を作って、飼育しました。これはうまくいきました。ところがだんだん数が減ってきたんです。私も不思議でした。それでこのままでは日本のホタルはいなくなるかもしれないと思い、みんなで力を合わせて日本のホタルの将来のために会を作りました」

 手塚「主に私達が目にする活動はなんですか?」矢島「ホームページを開いています。4ヶ月ぐらいで、3万のアクセスがあります。また毎年色々なデータを持ち寄ってシンポジウムを行っています。またホタルを育てるには川のことや植物のこと、川の中の小動物のことも知らなければいけません。ですからそういうことに詳しい方をお呼びしての勉強会を年に3回ぐらい行っています。年に4回季刊誌を発行しています」

 手塚「昔に比べてどのくらいホタルは減少しているのですか?」矢島「数えている方はいないんです。何故かというとホタルが光る時間は夜8時〜10時と、深夜12時〜2時の2回光るんです。でホタルの寿命は雄が1週間、雌が2週間。毎日数えるとダブってしまいますよね。ですから数えられないんです」手塚「昔はここに良くホタルがいたけど今はいないという所は?」矢島「そういう場所はここ50年間で、3分の1はあると思います」手塚「それの主な原因は?」矢島「川を汚してしまったということが言えます。ただ少しホッとすることもあります。昔はいなかった所にホタルが出てきたという所があります。それは下水道が整備されて、家庭排水が川に流れ込まなくなった所です」


矢島稔  手塚「7月14日の朝日新聞に“保護につながるホタルの飼育を”という題で寄稿されています。その中で“観光客や人寄せ目当てにホタルを養殖することと、ホタルの生態系まで視野に入れた保護とは全く違うものだ”と述べられていますが、詳しくお聞かせください」矢島「ホタルは一回の出産で500〜600の卵を産みます。そして9ヶ月間幼虫で過ごします。ホタルを沢山見せたいという人は卵を見つけてきて、水槽の中で孵します。水槽の中には敵もいませんし餌はいっぱいあります。そのホタルを9ヶ月経った5月ぐらいに川に放します。そうするとすぐに蛹になって親になり、飛び回ります。でも9ヶ月間水槽の中で育ったホタルは、川の環境とは関係がないのです。私が言いたかったのはそこなんです。少し取ってきて観察するという、そういう飼育は良いと思います。ところが9ヶ月間育ててしまう、人間が餌を与えて大きくして川に放す。これは人間による人間のための養殖なんです。せめて秋には放して欲しい。そうすればその川の環境で成虫になります」手塚「真のホタルが住む環境、あるいはホタルを増やしたいという環境づくりには、人為的な部分は加えない方がよいということですね」矢島「そうです。本当の保護というのは、人間の手が無くても毎年ホタルが飛ぶという条件を作ることなんです」

 手塚「矢島さんが活動の中で取り組んでいらっしゃる、具体的な環境作りとは?」矢島「静岡県で、それまではホタルが沢山いたんですが、台風で木が倒れたりして、少なくなってしまったんです。それで中学生がクラブ活動で、昔の川にしようと支流を作ったんです。そうしたらホタルが帰ってきたんです。それはホタルが見たいからといって、ホタルだけではなくその回りの環境作りからやったんです。これは嬉しかったですね〜」手塚「そのアドバイスを日本ホタルの会でやったんですね」矢島「そうです」

line
8月29日 矢島稔さん

矢島稔3 手塚「矢島さんは私の父、手塚治虫に会ったことがあるそうなですが」矢島「お亡くなりになる2年ぐらい前です。環境庁、今の環境省が日本の身近な所で生き物がいる所を100箇所選ぶ、ということをやったんです。それの事前に、相談の会が有りそこでお会いしました。その下打ち合わせの会で、手塚さんとお話ししたのを大変懐かしく思います。で翌年、委員会が初めて開かれました。僕の隣の席が手塚さんだったのですが、とうとう最後までいらっしゃいませんでした」手塚「その頃は入退院を繰り返していましたから...」矢島「残念でしたね〜」

 手塚「父は子供の頃に、昆虫や動物たちと触れあって、その経験が後に自分のマンガに現れてくるんですが、矢島さんも子供の頃にそういう経験をされたのですか?」矢島「僕は東京の中野育ちなんです。その頃は畑もありましたし、池や沼もありました。だからトンボ捕りやセミ捕りもやりました。でも戦争になって昆虫採集どころではなくなってしまったんです。戦争になると何も出来ないんです。虫が好きだったのに出来なかったんです。やっと終戦を迎えて“自由”になったんです。でも急に“自由”になっても何をして良いか分からないんです。僕は学徒動員で工場に行ったりして体を悪くし、校医さんに休めといわれたんです。でも家でぶらぶらしててもしょうがなくて...。家の回りで揚羽蝶(アゲハチョウ)を見つけました。揚羽蝶はカラタチに集まるんです。それでカラタチを餌にして、揚羽蝶の観察が始まりました。その後復学したんですが、その時には若い先生は兵隊に取られていなかったので、大学の先生が講師に来てくれたんです。理科のね。その方が昆虫学者だったんです。いっぱい虫を捕まえては先生に聞きに行ったんです。その中に先生でも答えられない虫がいて“研究してみないか”と言われて火がついたんです。で1年ぐらいかけてまとめたんです。そうしたら戦後初めての昆虫観察コンクールがあって、先生の薦めでそれに出したんです。そうしたら入賞しちゃったんです。もうそれで決まりです。僕は一生昆虫をやるんだってね」


矢島稔4 手塚「矢島さんは現在、群馬県立ぐんま昆虫の森園長をやっていらっしゃいますが、今は子供達が自然に触れる機会がないので、ここを自然体験出来る場所にしたいと言うことなんですが」矢島「里山環境といって、雑木林とか畑とか田んぼとか果樹園など、元々ある所なんです。ところが雑木林は最近は使われなくなって、手入れがされていないんです。それを5年ぐらいかけて手入れをしました。50年ぐらい前の日本をもう一度再現して、自然の中を子供達と一緒に歩いて対話する施設なんです。この施設には珍しい動物はいません。でも“探す目”さえあれば1年中いろんな昆虫がみつかります。子供達にそういう虫や自然を体験してもらいたいのです」

 手塚「見たこと無い物に対して子供達は嫌悪感と拒否感を持ちますね」矢島「誰だって生き物見た時に初めから“可愛い”とは思わないですよ。でも幼虫を飼ってみると、それが大きくなると嬉しくなるんです。自然と汚いとか、気持ち悪いといった感情は消えていきます。地球に住んでいる同じ生き物なんだと思うようになる。そうすると思いやりという気持ちがでてくるんです。“すり込み”という現象、鳥で発見されたんですが、人間にもあると思うんです。経験もないのに、先入観ばかり大人から入れられると(虫などに)近づこうという気にならなくなります。それをこの場所で子供達に遊びながら教えていきたいんです」


鈴木祐美子さん、北本忍さん 鈴木祐美子さん、北本忍さん

このページのトップへ戻る
手塚るみ子プロフィール 放送内容 お便り トップページへ。

Line