手塚「藤子先生が文通されていた頃、父は宝塚に住んでいたと思うんですが...」藤子「高校を卒業する春休みに宝塚に行って手塚先生にお会いしようと決心して、お手紙を出したんです。そうしたら先生のお母さんから何時何時来てくださいとお返事を頂きました。それで2人で夜汽車に乗って朝、宝塚に着いたんです。で聞けばいいのに住所を頼りにドンドン行って山の中に入って、野犬に襲われそうになったんです。それで駅に戻ってお巡りさんに聞いて着いたら立派なお屋敷で、入るのが恥ずかしくて、どっちが声を掛けるかジャンケンして決めました。結局僕が勝ったので、藤本君にベル鳴らせって言って、鳴らしたとたんにビューと逃げたんです(笑)」手塚「そんな(笑)いたずらじゃないですか(笑)」
藤子「そしたらお母さんが出られて応接間に通されたんです。そこはグランドピアノが置いてあって2人で“いやすごいなぁ〜”と言っていたら先生がいらしたんです。それは嘘ではなくて、後光が差していましたね。僕は思わず拝んだくらいでね...ちょうどその時先生はジャングル大帝を描いていらして、“まだ終わらないので待っててくれ”と言われて仕事部屋で待っていたんです。で“これでも見てたら”と渡されたのが“来るべき世界”の生原稿だったんです。でもそこで見たのが単行本で読んだことが無くて先生に聞いたんです。そしたらあの原稿は元々800ページ描いて400ページ捨てたと言われて、僕ら本当に驚いてね。その時僕ら、原稿を見せようと思って持っていったんです。9ページぐらいの読み切りを。でも恥ずかしくて渡せずじまいでした。その後、6時になっても仕事が終わらなくて、帰らなくてはいけなくてそろそろと言ったら“ご飯でも食べて行きなさい”玉子丼ぶりを取って頂いたんです。で食べているうちに8時になってしまって帰ったんです。ほとんどお話をしませんでしたね〜。それで大阪に着いたら富山行きの終列車は出ていて、大阪駅で野宿しました(笑)」手塚「どうせなら宝塚に泊まっていけばと言えばいいのに(笑)」藤子「夜中にお巡りさんに家で高校生と間違われて、補導されました。あれも今となってはいい想い出です」
手塚「その頃はもう藤本さんと投稿されていたんですよね」藤子「そうですね」手塚「でもまだプロとしては?」藤子「手塚先生の“まーちゃんの日記帳”の連載が終わってしまって、新聞社に僕たちがかいた“天使の玉ちゃん”を送ったんです。そうしたら忘れた頃に新聞社から5千円送ってきたんです。その頃の5千円ですからすごいですよ。それであわてて新聞を取ったらその日の号に明日から連載を始めますって載っていたんです。それであわてて試験勉強の最中でしたが、原稿を送ったんです。でもその連載は7回でプツッと切れてその後一切載らなかったんです。これがよく分からない(笑)」手塚「せっかくやる気になったのにね〜」藤子「結局それが僕らのデビュー作です」
手塚「その時のペンネームは?」藤子「本名でした」手塚「ペンネームで最初手塚を名乗っていたと聞いたんですが」藤子「最初つけたのが手塚先生の手塚と藤本君のフジ、我孫子素雄のオで“手塚不二雄”その後が“足塚不二雄”手じゃもったいないからと言う理由で...これは2〜3本かな」手塚「これは結構貴重だという話ですよね」藤子「その後“藤子”に変えたんです」
手塚「一番手塚から影響を受けた所は?」藤子「やっぱり“絵”ですね。今までに見たことがない絵でね。リアルな絵ではなくて、記号的なデザインみたいな絵なわけで、影響を受けました。あとはコマの切り方ですね。とても映画的な。そしてストーリーですね」 |