EarthDreamingロゴ 放送内容
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4月 立川談志
4月 毛利 衛
4月 藤井フミヤ
5月 安在尚人
5月 坂本徹也
5月 近藤 篤
6月 羽仁カンタ
6月 故・手塚治虫講演より
6月 上田壮一
7月 今井絵理子
7月 杉山清貴
8月 船越令子
8月 大野由紀恵
8月 小島あずさ
8月 大宮美智枝
9月 KONISHIKI
10月 西垣成雄
10月 疋田 智
10月 斎藤 誠
10月〜
11月
高樹沙耶
11月 上岡 裕
11月 渡邉英徳
11月 柴田政明
12月 大塚明夫
12月 安寿ミラ
12月 この1年を振り返って
1月 伊藤瞭介
1月 秋山 孝
2月 寺薗淳也
2月 藤子不二雄A
2月 つやまあきひこ
2月 丸田信之
3月 皆川孝徳
3月 大矢寛朗
3月 持丸和朗
2月8日 ゲスト:藤子不二雄Aさん

藤子不二雄A1 手塚「私と藤子先生は父の関係で何度となくお会いしているんですが、一番最初にお会いしたのは...」藤子「虫プロの頃にお会いしていると思うんですが...」手塚「小さいときですよね」藤子「そうですね、それがこんなに大きくなられて(笑)」手塚「漫画家の先生方とは小さいときから可愛がって頂いて、親戚のおじさんがいかに沢山いるかといつも思っているんです」藤子「あ〜なるほど...」

 手塚「2月9日が父の命日で、亡くなって15年経つんです。その父のことをお伺いしたいと思います。一番最初に手塚作品と出会ったのは?」藤子「“まーちゃんの日記帳”という新聞の4コママンガですね。その後手塚先生を認識したのは、昭和21年の“新宝島”という単行本です。藤本君と一緒に本屋さんに行ったら、ピカッと光ってたんです。それを買って二人で読んだんです。それは非常に衝撃的な作品でした」手塚「漫画家になろうと思ったきっかけは?」藤子「やっぱり“新宝島”ですね。その頃中学1年ぐらいでしたか、マンガは描いていましたがプロになろうとは思っていませんでしたから」

 手塚「父と最初に会ったのは...」藤子「それはずっと後ですね。その頃手塚先生はまだマスコミに登場していませんでしたから。顔写真もなくて、作品の中に自画像があるくらいで。ある時僕と藤本君がファンレターを出そうとしたんです。でもファンレターは全国から来るだろうから、目立たなければいけないと思い手紙に付録を付けたんです。それは手塚先生のポートレイトの油絵です。油絵なんて描いたことなかったのにね。でもそれが目に留まったのかお返事を頂きました。面白い手紙で、文字が渦巻き状に書いてあるんです。その途中にいろんなキャラクターがちりばめられていて。二人とも大感激でした。ただ僕らはその頃“漫画少年”に投稿していて、本当かどうか分からないけれど手塚先生は二人の名前を知ってると書いてくださったのでそれもとても嬉しかったですね」


藤子不二雄A2 手塚「藤子先生が文通されていた頃、父は宝塚に住んでいたと思うんですが...」藤子「高校を卒業する春休みに宝塚に行って手塚先生にお会いしようと決心して、お手紙を出したんです。そうしたら先生のお母さんから何時何時来てくださいとお返事を頂きました。それで2人で夜汽車に乗って朝、宝塚に着いたんです。で聞けばいいのに住所を頼りにドンドン行って山の中に入って、野犬に襲われそうになったんです。それで駅に戻ってお巡りさんに聞いて着いたら立派なお屋敷で、入るのが恥ずかしくて、どっちが声を掛けるかジャンケンして決めました。結局僕が勝ったので、藤本君にベル鳴らせって言って、鳴らしたとたんにビューと逃げたんです(笑)」手塚「そんな(笑)いたずらじゃないですか(笑)」

 藤子「そしたらお母さんが出られて応接間に通されたんです。そこはグランドピアノが置いてあって2人で“いやすごいなぁ〜”と言っていたら先生がいらしたんです。それは嘘ではなくて、後光が差していましたね。僕は思わず拝んだくらいでね...ちょうどその時先生はジャングル大帝を描いていらして、“まだ終わらないので待っててくれ”と言われて仕事部屋で待っていたんです。で“これでも見てたら”と渡されたのが“来るべき世界”の生原稿だったんです。でもそこで見たのが単行本で読んだことが無くて先生に聞いたんです。そしたらあの原稿は元々800ページ描いて400ページ捨てたと言われて、僕ら本当に驚いてね。その時僕ら、原稿を見せようと思って持っていったんです。9ページぐらいの読み切りを。でも恥ずかしくて渡せずじまいでした。その後、6時になっても仕事が終わらなくて、帰らなくてはいけなくてそろそろと言ったら“ご飯でも食べて行きなさい”玉子丼ぶりを取って頂いたんです。で食べているうちに8時になってしまって帰ったんです。ほとんどお話をしませんでしたね〜。それで大阪に着いたら富山行きの終列車は出ていて、大阪駅で野宿しました(笑)」手塚「どうせなら宝塚に泊まっていけばと言えばいいのに(笑)」藤子「夜中にお巡りさんに家で高校生と間違われて、補導されました。あれも今となってはいい想い出です」

 手塚「その頃はもう藤本さんと投稿されていたんですよね」藤子「そうですね」手塚「でもまだプロとしては?」藤子「手塚先生の“まーちゃんの日記帳”の連載が終わってしまって、新聞社に僕たちがかいた“天使の玉ちゃん”を送ったんです。そうしたら忘れた頃に新聞社から5千円送ってきたんです。その頃の5千円ですからすごいですよ。それであわてて新聞を取ったらその日の号に明日から連載を始めますって載っていたんです。それであわてて試験勉強の最中でしたが、原稿を送ったんです。でもその連載は7回でプツッと切れてその後一切載らなかったんです。これがよく分からない(笑)」手塚「せっかくやる気になったのにね〜」藤子「結局それが僕らのデビュー作です」

 手塚「その時のペンネームは?」藤子「本名でした」手塚「ペンネームで最初手塚を名乗っていたと聞いたんですが」藤子「最初つけたのが手塚先生の手塚と藤本君のフジ、我孫子素雄のオで“手塚不二雄”その後が“足塚不二雄”手じゃもったいないからと言う理由で...これは2〜3本かな」手塚「これは結構貴重だという話ですよね」藤子「その後“藤子”に変えたんです」

 手塚「一番手塚から影響を受けた所は?」藤子「やっぱり“絵”ですね。今までに見たことがない絵でね。リアルな絵ではなくて、記号的なデザインみたいな絵なわけで、影響を受けました。あとはコマの切り方ですね。とても映画的な。そしてストーリーですね」

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2月15日 藤子不二雄Aさん

藤子不二雄A3 手塚「藤子先生は手塚治虫のアシスタントをやっていらしたと言うことですが、いつ頃ですか?」藤子「高校卒業して新聞社に入社したんです。それで勤めて2年目の時に雑誌社へ行くために東京に行きました。で、その足でトキワ荘に行きました。その当時手塚先生はほとんどの雑誌に連載をお持ちだったので、いろんな編集者がそこに詰めていました。その中の編集者の一人が電話を掛けるために席を外したんです。そうしたら別の編集者が手塚先生と僕を車に乗せて神田の旅館に連れて行ったんです。そこで4日間、いわゆる缶詰になってお手伝いしました。その年の暮れに藤本が家に来て、急に“新聞社やめろ”と言うんでビックリしました。正直に言うと新聞社に勤めて2年。とても面白くて漫画家になるなんて気はなくなっていたんです。又僕の叔父がその新聞社の社長になっていましたし...それを全部ゼロにして東京に行くのは、と考えてしまったんです。それで母に相談したんです。そうしたら好きにしろと言われて。元々漫画家になりたかったので、新聞社を辞めて上京しました」手塚「大胆な決断でしたね〜」

 藤子「それで夜行で上京して、すぐトキワ荘に行ったんです。両国に下宿先を決めていたんですけどね。結局藤本君は両国へ僕は手塚先生と神田の旅館をぐるぐる回ったんです(笑)あの時嬉しかったのは『ジャングル大帝』の最終回をお手伝いしたんです。あの原稿の吹雪は僕が描いたんです」手塚「手塚作品の中には藤子先生が描かれた物が沢山あるんですね〜」藤子「手塚先生が封筒にお金を入れて、ギャラをくださるんですが“いりません、その代わりあれくださいこれくださいと色々な物をもらいました。素敵なお手伝いでした」


藤子不二雄A4 藤子「手塚先生と違う、僕が自慢出来るのは“遊ぶ”と言うことなんです。手塚先生はお酒は飲まない、ゴルフはされない、麻雀もしない」手塚「漫画1本ですからね」藤子「天才だから出来るんですよ。ところが僕たちは年と共に子供の気持ちがだんだん描けなくなる。でも読者も成長してきたおかげで、いまだに続けられるんです。これも又違った意味で、手塚先生とは別の路線です」手塚「今藤子先生のようになりたいという若い漫画家さんが沢山いらっしゃいますが、その先に父、手塚治虫がいて...。でもその手塚と違った道を作ったことで漫画の世界が広がったんですね」

 手塚「弱い子供を助けようとする“ドラえもん”とか“ハットリくん”と言うジャンルは手塚自身描いてこなかったので、すごく衝撃を受けていました。それを描こうと努力している所は手塚作品にも見受けられますから...。自分を超えた世界の漫画家の藤子先生というのは嬉しかったのか、悔しかったのか...」藤子「手塚先生は頂点を極めた別格の人なのに、昨日でてきた新人の漫画家も意識するんですよね。自分に描けない漫画だと、意識よりもジェラシーを感じたりされるところがすごいですよね」手塚「負けず嫌いだったんでしょうね〜」藤子「それだけでないでしょうけれど...
 手塚先生はさっきも言ったけど、遊びをされない。別に僕が先生に対抗するつもりで遊んでいるわけでもないんだけど、人間が好きなんですね。僕らの世界は極端な話スタッフと編集だけで終わっちゃうんですよ。それじゃつまらないので、一人で飲みに出かけたりするんです。そこでの出会いが又財産になりますから。そんな中に井上陽水さんがいました。それで僕が作った映画『少年時代』の主題歌を頼もうと思って手紙を書いたんです。その頃彼は全国コンサートが入っていたんですが、全部キャンセルしてあの名曲を作ってくれたんです。僕が注文出したのはただ一つ“デビュー曲『傘がない』あのイメージで作って”だけなんです。彼もその時音楽的にブレイクする時期だったので、原点に戻ろうと思って作ったんです。そういう意味で人との縁は大事なんですよ」

 手塚「藤子先生の今後の活動をお教えください」藤子「今年古希を迎えるんでそろそろ漫画界からもリタイアしてと思っているんですが(笑)若い、子供の頃僕の漫画を読んでくれたクリエーターたちがアプローチしてきているので、そういうところが嬉しくて漫画以外での露出も多くなっています」


寺薗淳也さん つやまあきひこさん

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