手塚「手塚治虫が生前、1986年3月1日に行った第31回子供を守る文化会議の講演をお聞き頂きます。父はあれだけ忙しくマンガを描いていたにもかかわらず、色々なところで講演を行っていました。そのほとんどはマンガやアニメについての講演でしたが、他にも教育問題や社会環境問題、さらには科学や芸術文化の講演も行っていました。父は日頃から話し上手で、いつも丁寧で分かりやすく話してくれるので、こちらもぐいぐいと引き込まれてしまいました。ただ私は父の講演をリアルタイムで聴いたことがないので、今回は皆さんと一緒に父の生の講演を聴くことになります。
この講演の頃、父は“火の鳥-太陽編”描いていました」
手塚治虫「私は子供の頃、いわゆるいじめられっ子でした。私は生まれつき目が悪くて、小さい頃から眼鏡をかけていました。さらに天然パーマの髪の毛で、もじゃもじゃ頭でしたので、“ガジャボイ”と呼ばれていました。私が学校に参りますとガキ大将が♪ガジャボイ頭を振り立てて、今日も眼鏡がやってきた。見えました、見えました、60mの眼鏡♪という歌を歌いました。あまりにも悔しいので、未だに覚えています(笑)またエリートにもいじめられました。小学3〜4年の頃に“風と共に去りぬ-Gone
with the Wind”を読んでいて、私にそれを言ってみろと言うんです。で私が言うと、それでは“窓と共に去りぬ-Gone with the Window”だと言っていじめるわけです。でその人はエリートコースを通って、官庁のお偉方になっていますが...(笑)
それで家に帰りますと、“ただいま”という代わりにべそかいておりまして、母親が、“今日は何回泣かされたの?”と聞きますからこっちは指折り数えて、8回などと応えるのが日常だったわけです。そういう時に母親に甘えてしまったり、母親側も過保護であれば子供も負け犬になってしまうのですが、私の母は“我慢なさい、堪忍なさい”と毎日のように言いました。
そういう母親でありましたが私にとって幸いだったのが、マンガを好きなだけ読ませてくれたと言うことです。親父は給料日になると、自分も読みたかったのでしょう、私にマンガを買ってきてくれました。また母親も親父から小遣いを貰いますと私のためにマンガの本を買ってきてくれました。そのようにして200冊ぐらいマンガの本がたまり、友達を呼んできて読ませるぐらいになりました。
もう一つ私がありがたいなぁ〜と思っているのが、母親が声を出して私達に読んでくれたことです。絵本を母親が読んでくれると言うことは現在でも多々ありますが、マンガの本を親が子供に読んで聞かせる、声を出して読んでくれるというのは無いのではないでしょうか。私にとっては現在を作ってくれるルーツとも言うべき存在でございました。
もう一人ありがたい存在がございました。それは小学校の時の担任の乾先生です。その当時珍しかった、作文教育という物に熱を込めてやっておられた先生でした。作文の時間になると“とにかく書け”と。内容はどうでも自分の思ったことをなるべく枚数を沢山書けというふうに指導なさいました。授業時間で終わらなければ家に持ってかえって書いても良いといわれ、一番多い時で、50枚書いたことがあります。また議論文という物も書かせました。いわば評論みたいなもので、子供がこれは間違っているのではないかといったことを、自分一人の意見として書けと、厳しい意見を書けと、そういう時間を一月に一回ぐらいやりました、この議論文で世間のいろんな出来事ですとか、社会に対する批判精神を養おうと先生は思われたのだと思います。
石原君というクラスメイトがおりました。時計屋の息子でエンジニアで、私の親友の一人です。彼はエンジニアであると同時に、科学にも強く自然科学のオーソリティでもありました。その彼が初めて私を昆虫採集に連れて行ってくれました。またその当時非常にモダンな設備といわれておりました、プラネタリュウムに連れて行ってくれました。
私は良い友達と良い先生と、私の面倒をみてくれた母親とに囲まれて、恵まれた環境に育ちました
ただそれだけではおそらくいじめられっ子で終わってしまったと思います。そこで私はマンガを見て、マンガを読むことと同時に、マンガを描くことに気がつきました。まず模写から始めました、なぜ始めたかというと、いじめっ子にいじめられないためには、自分でないと出来ない特技のような物を一つ持つことだという結論に達したからです。従ってそれからマンガの勉強をいたしました。これが私が漫画家になるきっかけを作った理由でございます。小学校5年生ぐらいの時に、ノートに一冊の続き物のマンガを描き友達に見せるまでになりました。先生もそれを取り上げて職員室に持っていきました。けれどありがたいことに他の先生方にそれを見せて、返してくれ“ドンドン描けよ”と言ってくださいました。この小学生時代に、漫画家になる基礎を培われたと言っていいと思います。それと周りの環境が培ってくれたんだと思います。
子供をめぐる状況というのはすべて、学校、家庭、友人、この3つに平等に培われると思います。子供をめぐる状況で、学校の責任だとか、あるいは家庭の責任だとか、あるいは友達が悪いとか、それぞれ言い分をいっておりますがこれは平等に責任があると思います。私は学校制度とか、先生の資質とかそういったこと云々する前に、なぜ校内暴力とか、子供の自殺、親子の断絶が起こるのか、僕なりの考えを申し上げます。40年間、見かけは天下太平な時代が続きましたけど、人々の心の中は戦争の時代よりも、もっとすさんでいるように思えます。最近は体制の中で生き延びるという処世術だけで、命という無限の価値、自然界の中の人間の位置の重大さを教えられるということがほとんど無くなりました。ことに幼児期のもっとも鋭敏に情報を吸収して人格が作られるという時期にそれらはほとんど無視されてしまっている。人の命というのはかけがえのない物、人生はたった一度しかない、そして死によってすべて失われるのだと。それと自然界のあらゆる生き物、ひいては地球もそうですね。同じ生命力に溢れているものだと積極的に教える教育という物が、今こそ必要なのではないかと思います。それは小さい頃から命を大事にするとか、生き物をいたわろうという教育が積極的に続けられていれば、現在の子供をめぐる悲惨な状況は無くなる。これは今からでも始めて遅くはないし、すぐに生かされる物ではないかと思います。
このような時代に子供の夢を聞くとあまりに現実出来でがっかりいたします。お金儲けですとか、出世して地位を確保するとか、そういった物が子供の希望の中に含まれているのは真に情けない。これは大人の皆さんにも責任があると思います。それは子供達の野放図な夢やロマンが大人によって刈り取られているという嫌いがあるからです。一例を挙げますと、鉄腕アトムがやり玉に挙がりまして、追放されたことがあります。“こんな鉄腕アトムのようなロボットが出来もしないのに、何を書いているか”と、また“月に人間が行けるはずもないのに、荒唐無稽な冒険を描く、手塚というのはどういう人間だ”と痛めつけられました。私は長い間荒唐無稽と言われる夢を描いてきました。そして子供達も同じように荒唐無稽な夢を持っているかもしれません。しかし親たちが“こんな馬鹿馬鹿しいもの”とか“出来もしない事を”と無碍に批判して追放するということはファシズムだと思うんです。子供達は子供達なりに未来に希望を持ちたい、それなりに夢を持っております。ただ我々の持っていた時代の夢とは違うと思います。子供は現代人であり、また未来人なんです。我々よりも少し進歩した時点で未来という物を把握し、認識していると思います。
アップリカの社長と私は同年輩で友達です。その社長(現会長)のモットーが“赤ん坊を見たら、大人は拝みなさい”彼は“子供は未来人、我々よりも神に近い”と言うんです。つまり我々よりも後に残って、少なくとも地球の未来を支えてくれる子孫。これを大事にしなくてはならない。すくなくても一日一回は子供を拝むという習慣を付ければ、子供に対する理解も生まれ、そして尊敬も生まれて、家庭的にも、社会的にも平和が生まれるんだ。と言っておりました。
確かに子供は未来人です。その子供達のためにも、何が本当の教育か、何が本当の文化かと言うことを子供達に私達が見極めて与えなければならない。しかしそれは少なくても大人のための文化であってはならない、あくまでも子供のための文化でなくてはならないのです。 |